【オタク・イズ・デッド】オタクが死んでも変態は死なず、ただ消え去るのみ

毎年6月は「太宰治強化月間」と称して、太宰治関連以外の本は一切読まず、太宰治とその文学に思いを馳せるのが習わしだ。
今年は無事に13日の白百合忌にも参加(墓参)したが、19日の桜桃忌は毎年欠かさず参加(墓参)しており、運営している太宰治真理教サイトではなにがしかの記事を書いたり、コンテンツを更新したりしている。
つまり、5月末まで読んでいた本や作業は一旦全部中断し、7月から再開することになるが、正直に言えば最近ちょっとツラくなって来た
各種SNSやウェブサイト運営といったネット活動は、私にとっては「壮大な実験の場」であり、「趣味と実益」ではあるが、イササカ手を広げ過ぎたキライがあり、アレもコレも中途半端になりつつある。
非常に簡単に言ってしまえば、「超絶大変な割に、見込んだ成果がほとんど上がらない」のであって、自分も寄る年並で目がダメになり、集中力が続かないのに「なんでこんな苦行をしているのだろう?」といった、疑問がグルグル駆け巡っていた。
そんな折、次の動画を観たのである。

どっかで見たことがあるオッサンが、なんかオタクについて熱く語ってるナ」と、最初は冷ややかに動画を見ていたが、結局全部見終わってしまい、自分の中で長年ワダカマっていたモノが腑に落ちた気がした(2006年5月24日に新宿ロフトプラスワンで行われた岡田斗司夫の講演『オタク・イズ・デッド』フル動画はこちら)。
私はそもそも、自分がオタクだと思ってはいなかったし、「おたく(オタク)」などという語は、私が中学生の頃にマンガやアニメを愛好している連中を指して使う(ある意味)蔑称だったワケで、「あんなキモい連中と一緒にされてタマるか!」と思っていたものだ。
ところが、昭和と共に1980年代が終わる頃、私は高校生になっていたが、私もパソコンオタクという、「あんなキモい連中と一緒にされていた(!)のである。
確かに私は小学生の頃から松本零士作品を愛好してマンガその他を大量にコレクションしているし、ほぼ同時期にパソコンを知り、プログラミングにハマッてもいた。
中学生になると学校にも行かずに自室のパソコンでZ80のアセンブラに夢中だったし、太宰治にも大いにハマッていたのは事実である。
だが、当時の私の認識では、「おたく(オタク)」ってのはコミケや、秋葉原の片隅で開かれる聞いたこともないようなアイドルのイベントに参加し、お互い初対面かタマに顔を見る程度で、

オタA「お宅、どちらから?」
オタB「拙者、大サイタマー帝国からでござる」

みたいな会話をする、なぜか二人称が「お宅(おたく・オタク)」の、紙袋を提げたキモい人種を指すモノだとばかり思っていたのだ。
私は松本零士作品、それに永島慎二作品を一途に愛好し、大量にコレクションして読んではいたが、自分で絵やイラスト、マンガを描こうなんて思ってないし、コミケにまで出かけて素人の二次創作を買い漁るようなことをしようなどと、一切考えたこともない。
また、太宰治坂口安吾の文学や、中原中也立原道造の詩を大いに愛好し、イッパシに文学を語ることはしたが、やはり自分で何か小説や詩を書いて仲間を募って同人誌を出そうなどとは思わない。
私にしてみれば、マンガやアニメ、文学は愛好する趣味のひとつではあるが、それで何かをしようとは一切考えておらず、また、それらの趣味がネクラで人様から後ろ指を指されるモノであるとは、ちっともサッパリ思っていなかったに過ぎない。
当時はマンガやアニメ、それにアイドルを愛好する連中に変なヤツが多く、キモい言動をする連中を「オタク」としてレッテル貼りをしていたに過ぎない、という認識だ。
もっと言えば、私の場合は小学生の頃の夢が「(職業として)プログラマになること」であったし、中学生になると地元のソフトハウスに出入りしてプロの仕事を実地で勉強したり、お手伝いの真似事をしていた。それに、北坂戸で活動していた某マイコンクラブに参加し、当時有名だったゲームを制作するソフトハウスに出入りもしていた。
ゆえに、中学・高校の時分にマンガ・文学・パソコンで話の合う同級生なんぞ存在せず、文学は国語の教師か、パソコンは一線で活躍している大人としか話が合わないのが道理であった。

インターコム「まいとーく」

岡田斗司夫の講演『オタク・イズ・デッド』によれば、私は世代的に「オタク第1.5世代」なのかも知れない。
オタク第1世代」のような貴族主義が理解出来なくはないし、1980年代前半にオタク活動(マンガを愛好して収集していたり、パソコンでプログラムを書いたりしているのを含むのであれば)をしていた私は、確かに第1世代であると言えなくもない。
しかし、宮崎勤連続幼女誘拐殺害事件や、宅八郎が出てきて「あんなのと一緒にしてもらっては、かなわん!」とは思っていたし、そもそもそんな連中と一緒だという認識すらなかったので、「オタク第2世代」かと言えば、それもかなり微妙だ。第一、私はエヴァなんかで救われたなんて思っていないどころか、昨年までエヴァンゲリオンは一切否定していたのだから(「【シン・エヴァ】神道世界がキリスト教世界に勝った?エヴァの世界観」記事参照)。
とは言え、確かに第2世代のエリート主義は理解出来るし、それらは多分に1990年代前半のパソコン通信や、1990年代中盤以降のインターネットの普及に関係するように思う。
私が画像の「まいとーく」を使ってパソコン通信をやり始めたのは1991年か1992年頃だったし、マッキントッシュLC575を買ってインターネットをやり始めたのは、確か1994年か1995年頃だった。
私のようなITのプロやマニアは1990年代にパソコン通信でシグオペをやっていたり、インターネットでウェブサイトを開設してみたり、メーリングリストに入って情報交換を一生懸命にやっていたモノだが、そういったマニア(オタクと言ってもいいかも知れない)がいたからこそ、2000年代の2chの流行や、オタクが特定分野の専門家として一定の価値を一般に認められるようになった下地があったのだと思う。
1990年代終盤の日記サービスサイトが2000年代前半のブログサービスに代替され、mixiやGREEといったSNSが登場して「Web2.0」と言われたのが2000年代半ばであった。
個人運営のブログはちょっと別だが、すでに2chやmixiにはオタク情報がハンランしていて、オタクの定義そのものが変質し、新たな「オタク第3世代」以降のオタクが大量に発生したのだろう。
だからこそ、2006年の講演会で岡田斗司夫は「オタクは死んだ」と、声を詰まらせながら思いの丈をブチまける必要があった。「オタク第1世代」であり、オタキングを自称していた岡田斗司夫と、オタクとして非難されたり、差別された経験を持つオタク共は、それに共感し、落涙することになったのではあるまいか。

だが、私は「オタクは死んだ」に共感するところはない

それは自分がオタクであるという認識がなく、それゆえオタクを自称したことがないのに、岡田斗司夫に「オタクは死んだ」と言われたところで、私にしてみれば「はい、そうですか」ぐらいのモノでしかないのだ。
ただ、オタクという人種が自分の愛好する対象の同好の士を求めるのは分かるし、愛好者同士でディープな話題で盛り上がったり、群れたりツルんでみたいのも分かる。
しかし、例えば私が愛好するマンガや文学やパソコン(プログラミング)を深く掘り下げて愛する行為と、その愛を他人に理解して貰おうとする行為は、本来的に別モノだろう。
むしろ、一般人が理解しない松本零士太宰治の作品の良さや、コンピュータのプログラミングの世界の素晴らしさを知り、それらを深く愛するが故に普通の人と話が合わないとか、変なヤツだと思われているだとか、そんなことは私にとってみれば些細な事でしかないのである。
それゆえに、私は自分がオタクであるとは思っていなかったが、中学や高校の頃にはすでに一般に理解されないだろうとは自覚していたし、現実に未だ理解されてはいないので、自分を「変態」であるとは思っていた。
一般をノーマルとした場合、それに対してアブノーマルといった意味での「変態」であり、ある意味「病的」ですらあるという、自嘲を込めた表現だ。少なくとも二人称を「お宅」と呼び合う連中の「おたく(オタク)」よりは、よっぽど気が利いていると思っている。
一般人が私のような変態を理解することはないし、それは私のような変態が一般人を理解しないとも言えるので、変態を理解するのは同レベルの変態でしかあり得ないのである。
しかし、変態だからこそ一般人が思いもしない発見や発明をしたり、面白さを伝えることは可能であるだろう。
岡田斗司夫が前掲の動画で最後に言っているのは、「オタクは死んだ。だからこそ、自分が好きなことを伝えるしかない」ということだ。
私が運営している本サイトや、太宰治真理教私設松本零士博物館といったウェブサイトは、正に「自分が好きなことを伝えるしかない」と思って始めたのである。
日本でTwitterやFacebookのサービスが開始されたのが2008年で、ほぼ同時期にiPhoneが発売になり、2010年代はスマホの爆発的な普及により、TwitterとFacebookといったSNSが流行し、今や誰もが当たり前に使っている。
つまり、2000代半ばとは比較にならないほどのユーザ数で溢れテキトーかつインチキなネット情報がハンランしている。
だからこそ、30年も40年も愛好し続け、しかもITを本職にしている変態の私でしか出来ない情報発信が可能なハズだと思っているし、なんとか頑張っていることろである。
ただ、やはり加齢に伴う身体的制限はイカンともし難いので、無理は禁物だと考えるようになった。
いつまでこうしたウェブサイトの運営と情報発信が出来るかは分からないが、その時が来たら、ただ消え去るのみだと思っている。

そんな一日だった。(´ー`)y-~~oO


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