先日の「憂国忌」当日、Twitterを見ていて思うことがあった。
圧倒的大多数が憂国忌を知らないか、三島由紀夫の単なる「命日」「自殺した日」ぐらいの認識しかないようだった。中には憂国忌だと知ってツイートをしている人も探せばいたが、かなり少数だったのは否めない。
Twitterにはあんなに愛国保守勢がいて、また反日左派勢がいるのに、どちらからも綺麗サッパリ三島由紀夫を忘れたかのようであり、私は驚きを隠せなかった。
いわんや太宰治に至っては、その文学も含めて誤解されたままだろう。まずは太宰治に関して、少なくとも太宰治真理教の信者を自認する私が声を挙げずにどうするのか?と思ったのである。

ザックリ太宰治とは?

青森県屈指の大地主で素封家として知られ、北津軽郡金木村(現・五所川原市金木町)で「金木の殿様」と呼ばれた津島家の第十子、六男として太宰治(本名:津島修治)は生まれた。
明治42年6月19日のことで、宅地約600坪の壮麗な大邸宅で生まれた初めての子供だった。

太宰は他の兄弟よりも抜きん出た鋭敏過ぎる頭脳と感性を持ち、それゆえに幼少の頃から「生きにくさ」を抱え、そのまま大人になったような人だったと思う。
簡単に言ってしまえばHSP気質だったと言えるし、それを実人生と作品で大袈裟にやらかしたのが太宰の人生だったし、それは親兄弟・友人・知己といった周りの人々は「迷惑」以外の何者でもなかったかも知れない。
しかし、太宰は「本物の純粋さ」で「人生に対峙した」と私は思っているし、いまだに広く太宰文学が読まれる所以だと思う。
ちなみに太宰の中期以降の主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『斜陽』『人間失格』等がある。

終戦と太宰

日本は終戦によって、それまでの価値観が180度転換するような時代になってしまった。
GHQ愚劣な占領政策をいちいち云々するつもりはないが、日本を代表する企業は財閥として解体され、日本を支えてきた政治家や企業家等が大勢パージされた。そして農地改革によって太宰の実家はその地所の大半を失ってしまう。
共産党が合法化されたのも、太宰にとっては大きかっただろう。
大正デモクラシーの時代に尋常小学校のときから「自分は同級生の親を搾取している地主の子供だ」と思い知り、旧制中学の頃には「自分は革命によって滅ぼされるべき資産家階級だ」と信じ、旧制高校生時代から非合法な共産党活動に投身して身も心もボロボロになって運動から脱落し、青森警察署に出頭して転向したのだから。

一面焼け野原の東京で、食料はなく、酷いインフレでお金もなく、あらゆる資源が枯渇した日本で、故郷の青森県の金木から東京の三鷹に戻った太宰は何を思っただろうか。

当時の作家の中で唯一、(戦災のため焼失したので執筆し直して)戦後すぐに脱稿した作品「パンドラの匣」で「天皇陛下万歳!」と書いた太宰の心中は、いかばかりであったのか。GHQの検閲がある中で、かなりの危険を犯したことになるのだが。この辺についても、今後の研究課題としたいところだ。

「天皇陛下万歳! この叫びだ。昨日までは古かった。しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ。十年前の自由と、今日の自由とその内容が違うとはこの事だ。それはもはや、神秘主義ではない。人間の本然の愛だ。今日の真の自由思想家は、この叫びのもとに死すべきだ。アメリカは自由の国だと聞いている。必ずや、日本のこの自由の叫びを認めてくれるに違いない。わしがいま病気で無かったらなあ、いまこそ二重橋の前に立って、天皇陛下万歳! を叫びたい。」

出展:太宰治パンドラの匣」(初出:「河北新報」昭和20年10月22日より掲載)

端的に言えば、太宰の実家は戦後になって急速に没落した。
農地改革による地所の喪失だけではなく、家業である金木銀行が終戦を待たず第五十九銀行(後の青森銀行)に買収されていたり、終戦前後の長兄・文治氏の政治活動や、戦後初の民選県知事(青森県知事)になったことも関係しているようだ。
故郷とその実家を常に心の支えとして誇っていた太宰チェーホフを愛読し、「斜陽」を書き上げるには、十分過ぎる時代背景だったと言えるだろう。

太田静子と「斜陽」

戦後活字に飢えていた人々は、カストリ雑誌だろうが何だろうが、「戦争礼賛ではない文章」を読みたかったに違いない。
戦後の太宰は「軍や政府の御用作家ではなかった」点からしても人気があって注目されたし、戦前・戦中に発表していた作品や単行本も続々と再版されるようになった。何より「斜陽」で大ベストセラー作家になり、一躍時代の寵児となった。
その「斜陽」は、戦時中から文通を通して知り合った文学少女で作家志望だった太田静子の日記がベースとなっている。
太宰静子が男女の関係になったのは事実だが、世間一般で言うところの「愛人」であったとは、私は考えていない。
しかし、静子太宰との娘・太田治子(作家)を生んだのは事実だ。そして没落貴族と言って良い家柄の令嬢だった彼女は、経済的に太宰を頼るしかなかったのも、また事実ではあった。

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仕事を断らねばならぬほど殺到した太宰に、三鷹の家には編集者や友人、ファン等が押し寄せる。まともに仕事にはならないし、太宰に来訪者を断る意気地はない。そして編集者や友人と大騒ぎの酒宴を2~3日開くのもザラだったようだ。
そこへ、新たな女性が現れることになる。

山崎富栄の「献身」

戦争未亡人の山崎富栄は、日本初の美容と洋裁の専門学校である東京婦人美髪美容学校(通称:お茶の水美容学校)の校長令嬢で、銀座の美容室を切り盛りするほどの技術と器量をもった才媛だった。
お茶の水にあった鉄筋コンクリートの専門学校は戦時中に軍に接収され、戦後はGHQに接収されてしまい、富栄は学校再建のために、かなりの額の貯金をしていた。
ちなみに病死した富栄の兄は旧制弘前高校太宰の2年先輩にあたる。その縁が、富栄の人生を大きく狂わせてしまったのかも知れない。

恋の蛍―山崎富栄と太宰治 (光文社文庫)

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たまたまミタカ美容院と三鷹の進駐軍専用キャバレー内の美容室で美容師として働いていた富栄は、三鷹駅前に出ていたウドン屋台で太宰と知り合い、意気投合して恋仲となった。
太宰は仕事場に、昼間は美容師として勤めに出ている富栄の部屋を借り(当時は部屋を借りたくても空襲によって住宅そのものがない)、夕方は三鷹駅前のうなぎ屋台で一杯やるような生活をしていたが、激烈な仕事量と酒の饗応とで、金銭的にも肉体的にも疲弊して行った。
戦後脚光を浴びて超売れっ子になったことで、太宰は文壇の諸先輩から(特に志賀直哉や、直接の師である井伏鱒二からも)イジメに遭っていたようだ。精神的に強いとは全く言えない太宰にとって、尊敬する諸先輩からの心ない誹謗中傷は、かなりの精神的ダメージがあったのだろうと思う。
そんな太宰を金銭的にも精神的にも支えたのが富栄で、太宰のマネージャ兼看護婦として、それこそ「死ぬ気」で晩年の太宰を擁護して支えたのだった。
当時のハイパーインフレの中、今の金額で数千万とも言われる貯金が富栄にはあったようだが、全てを太宰に捧げたのである。

不朽の名作「人間失格」

太宰が「人間失格」をどうしても書き上げなければならない、と決意した頃にはすでに肺結核で喀血していた。 富栄は血を吐く太宰を看病しながら、心中する決意を固めていたのだろう。
筑摩書房社長の古田晃の限度を知らない援助を受けながら、「人間失格」は書き上げられた。
脱稿後、恐らく軽い気持ちで「グッド・バイ」の新聞連載を開始したと思うが(富栄との入水で絶筆)、この頃に豊島与志雄富栄に伴われながら、頻繁に訪ねている。
豊島与志雄は東京帝大仏文科時代の先生で、ユゴーの「レ・ミゼラブル」を翻訳したのが、この豊島与志雄だった。戦前の知識人であり、戦後の「か弱き」力を持たない知識人でもあった。
こういった戦前からの知識人が沈黙したのが戦後の日本でもある。

戦後の日本はGHQ占領政策によって、または日本共産党によって、戦中・戦前の日本は全否定された。終戦によって「新しい時代」になり、戦時中の苦しさからほとんどの日本人は快哉を叫んだように、私には思えてならない。
これは太宰に限らず、戦後を生きた日本人に言えることだが、戦後間もなくの頃はヤケを起こしてメチルアルコールに手を出して目が潰れたり、特攻隊崩れの復員兵の中には、地回りのヤクザになり下がった人もあったようだ。
坂口安吾の「堕落論」が熱狂的に支持されたのにも、十分な理由とその時代背景があったとは思う。
そこで太宰の「人間失格」は、当時の人々にどのようなインパクトを与え、どのように読まれたのだろうか。それは今後の研究課題としたい。

終戦による太宰の絶望について

太宰の戦後における絶望と言ったら、それは果てしもなく深かっただろう。
いくらハイパーインフレの中、3万円程度(青森特産の総ヒバの入母屋造で明治40年に完成した実家は、当時の金額で約4万円という巨費で造られた)で赤の他人に実家を売り渡す他なかったと聞いた太宰は、美知子夫人に号泣して絶叫したようだった。
それに太宰の絶望は実家の喪失だけではない。終戦によって、それまでの日本が壊されてしまったのだから。

指導者は全部、無学であった。常識のレベルにさえ達していなかった。
×
しかし彼等は脅迫した。天皇の名を騙って脅迫した。私は天皇を好きである。大好きである。しかし、一夜ひそかにその天皇を、おうらみ申した事さえあった。
×
日本は無条件降伏をした。私はただ、恥ずかしかった。ものも言えないくらいに恥ずかしかった。
×
天皇の悪口を言うものが激増して来た。しかし、そうなって見ると私は、これまでどんなに深く天皇を愛して来たのかを知った。私は、保守派を友人たちに宣言した。
×
十歳の民主派、二十歳の共産派、三十歳の純粋派、四十歳の保守派。そうして、やはり歴史は繰り返すのであろうか。私は、歴史は繰り返してはならぬものだと思っている。

出展:太宰治苦悩の年鑑」(初出:「新文芸」昭和21年3月)

貴族階級と旧来の日本が没落していく「斜陽」は、新時代における新たな【恋と革命】を暗示しているし、「人間失格」は旧世代の人間と自覚した太宰の、読者に向けた【最後の奉仕】であったのかも知れない。そして「グッド・バイ」は太宰の【最後のお道化】だったのだろう。
全て「時代が悪い」とは言わない。
ただ、太宰は全てを受け入れ、彼なりの【】に殉じようとして、身を処したのだと私は考えている。無論それは、多分にヤケクソの、ヤブレカブレであったろうとは思うけれども。
そして死の晩年、激烈な志賀直哉批判を「如是我聞」で行ったのだった。

若いものの言い分も聞いてくれ! そうして、考えてくれ! 私が、こんな如是我聞などという拙文をしたためるのは、気が狂っているからでもなく、思いあがっているからでもなく、人におだてられたからでもなく、況や人気とりなどではないのである。本気なのである。
(中略)
何処に「暗夜」があるのだろうか。ご自身が人を、許す許さぬで、てんてこ舞いしているだけではないか。許す許さぬなどというそんな大それた権利が、ご自身にあると思っていらっしゃる。いったい、ご自身はどうなのか。人を審判出来るがらでもなかろう。
志賀直哉という作家がある。アマチュアである。六大学リーグ戦である。小説が、もし、絵だとするならば、その人の発表しているものは、書である、と知人も言っていたが、あの「立派さ」みたいなものは、つまり、あの人のうぬぼれに過ぎない。腕力の自信に過ぎない。本質的な「不良性」或いは、「道楽者」を私はその人の作品に感じるだけである。高貴性とは、弱いものである。へどもどまごつき、赤面しがちのものである。所詮あの人は、成金に過ぎない。
(中略)
この志賀直哉などに抗議したおかげで、自分のこれまで附き合っていた先輩友人たちと、全部気まずくなっているのである。それでも、私は言わなければならない。狸か狐のにせものが、私の労作に対して「閉口」したなどと言っていい気持になっておさまっているからだ。

出展:太宰治如是我聞」(初出:「新潮」昭和23年3月号より掲載)

流行作家であった太宰と戦争未亡人である富栄の「情死」を当時のマスコミはセンセーショナルに伝え、世間は大いに好奇の目を向けた。当時の太宰ファンは、さぞ残念に思ったことだろう。
太宰が売れて面白くない当時の文壇の作家も多かっただろうし、だから太宰作品の(それは意図的もしくは意図的ではないに関係なく)ネガティブ・キャンペーンを大いにやったのだろう。それは多数の編集者や友人、ファンから太宰とその仕事を守った富栄にも、同様に向けられたのだった。
世間一般からすれば、太宰は「自殺未遂を繰り返す狂人」「麻薬中毒者」「精神異常者」「自殺した作家」「暗い作品」のイメージがレッテルのように定着し、事実も含め今でもそう誤解されているのだから。

おわりに

今は世界的に近現代史を再考する風潮があり、韓国のような「歴史修正主義」としか言えない主張が世界各地で発生している。支那はそれを戦略的にやっているとしか思えないが、旧ソ連邦だった各国、それに東南アジアの各国やインド等の新興国ではそういった傾向にあるようだ。
少なくとも日本人ならば切り口はどうあれ、戦前・戦後の近現代史について、正しい見識を持ちたいと思う。
私は太宰治坂口安吾三島由紀夫といった切り口で深く掘っているが、まだまだ勉強が全然足りていないし、私自身の研究も浅いままだ。しかし、前提として少なくとも「太宰治の死の意味」を考える上で、正確な近現代史を知る必要があると思っている。
太宰治その人や、太宰文学が国内の不特定多数の作家や学者を中心としたネガティブ・キャンペーンで貶められたように、隣国が同様に日本を貶めているのだから。

 

 


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