未だにPukiWiki関連開発から絶賛現実逃避中なので、先日Amazonプライムで『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(以下、「シン・エヴァ」と略)を視聴した。
何も知らないでいきなり「シン・エヴァ」を観たのではなく、以前noteに次の記事を書いたように、TV版全部と劇場版3作(序・破・Q)を最近になって観ていたのである。
「シン・エヴァ」を観た感想としては、ただただスゴイ、としか言いようがない。
私はエヴァヲタクではないし、相変わらず説明不足で複雑かつ難解な世界観の「シン・エヴァ」をネタバレ上等で解説しようとは思わない。
そんな記事は、すでに多くのエヴァヲタクによって書かれているだろう。
ただ、非常に示唆に富む映画だったので、私なりに映画から受けたインスピレーションを元に、エヴァヲタクでは書けないであろう視点から、持論を展開してみたいと思う。
神道世界がキリスト教世界に勝った?
日本の近代史を大きく分けるとすれば、それは大東亜戦争を境とした戦前と戦後だろう。
戦中を含む戦前の日本は、乱暴な言い方をすれば「神道世界」であり、多くの日本人の宗教が仏教(特に仏教徒や信者に限定はしないが)の神仏習合(現在は厳密には神仏分離)の世界だ。
それは戦後の現在でも変らないが、戦後の日本人の多くはアメリカの豊かさに憧れ、その合理的な生活様式に憧れた。
江戸の昔から「南蛮渡来の舶来品」を珍重し、強い憧れを持った日本人であるから、戦後は良くも悪くもアメリカに教えを乞い、追いつけ追い越せとばかりに戦後復興と超高度経済成長を成し遂げた。
その前段階として、敗戦の翌1946(昭和21)年に
つまり、端的に言えばGHQによって「戦前の日本が全否定された」のだ。
昭和天皇のいわゆる「人間宣言」の詔書は、一度もご自身を神だと名乗ったことがない昭和天皇が「私は人間です」と詔書で宣言したワケではない。
この辺に関しても誤解している人が多いので、別途稿を改めて記事化しようと思うが、戦後の舵取りを任された吉田茂と日本国憲法・警察予備隊(自衛隊)・日米安保等を次の記事でまとめているので、良かったら参照して欲しい。
戦後から現在に至るまで、日本がキリスト教世界だとは言わないが(日本におけるクリスチャンは日本人全体の1%程度だと言われている)、伝統的にクリスチャンが大統領に就任するアメリカに絶大な影響を受けており、日本で保守を自認している人でさえ、従米保守だったり新自由主義に毒されている。
世界の宗教をザックリ分ければ、図のようになるだろう。
あらゆる宗教を否定する共産主義の支那は別として、アメリカ・ロシア・ヨーロッパ各国はキリスト教だし、中央アジアから中東はイスラム教だ。
ヒンドゥー教はほぼインドに限定されるようだが、そもそもインドは人口が多い。
非常に乱暴に言えば、有史以来~現在までの世界各国の戦争は、宗教に端を発したキリスト教(元になったユダヤ教も含む)とイスラム教による戦争だと言えるだろう。
そういった意味では、大東亜戦争はキリスト教白人と神道日本人との戦争であった、とも言えるのだ。
ここまで読んだ察しの良い人は、私が何を言いたいか、もうお分かりだろう。
碇ゲンドウ率いるNERV(と、その背後にいた秘密結社SEELE)はキリスト教世界であり、葛城ミサト率いるWILLEは神道世界であると言える。
あまり書くとネタバレになるが、SEELEとNERVを最大限に私的活用した碇ゲンドウのキリスト教世界は、葛城ミサトの特攻と碇シンジによる神道世界によって「人類補完計画」は実現することなく消滅し、ネオンジェネシスにより「エヴァがなくてもいい世界」に書き換えられた。
映画のラスト、青年になった碇シンジのほか、綾波レイ、渚カヲル、式波・アスカ・ラングレーの姿が見える。そして真希波・マリ・イラストリアスが現れて碇シンジのDSSチョーカーを外し、2人は手をつないで階段を駆け上って走って行くシーンを最後に、街の風景をバックにエンディングテーマが流れ、映画は終わる。
使徒やエヴァが登場するキリスト教世界は神道世界に書き換えられ、人々は平和に暮らすだろうことが想像されるのである。
日本にフェミニズムが不要な理由
映画の中盤、式波・アスカ・ラングレーと綾波レイのコピーであるレイ(仮称)と劇場版Qで廃人然とした碇シンジは、ニアサードインパクトの避難民村「第3村」へ辿り着く。
そこでレイ(仮称)は村の人々と次第に溶け込み、挨拶の言葉や労働、そして生きる意味について知る。
イラスト:しょぺ(@syope)氏
ここに、かつての日本の原風景を見るのは、私だけだろうか?
ともあれ、エヴァシリーズのアニメでは、とかく女性が大活躍する。
碇シンジのウジウジしたクソ弱いメンタルにイライラして離脱する人は多かったろうと思うが、そういった碇シンジを、エヴァパイロットの綾波レイや式波・アスカ・ラングレー、そして上官の葛城ミサトといった女性陣が各人各様にサポートしている。
そう、不自然だと思えるほどに。
これは私個人についても言えるし、両親や友人その他を見ていて思ったことではあるが、とかく男という生物はダラシナイし、ワガママだし、意気地がないし、要するに満遍なく夢見がちなバカである。
それは女性に比べて生物学的に染色体が一本足りないといった「生物的な弱さ」もあるかも知れないが、普通に考えて「鼻の穴からスイカを出す」ような出産なんか、想像するだに痛すぎて、とても男に出来るとは思わない。少なくとも「痛いの怖い」と歯医者に訴える私のようなチキン野郎には無理だ。
そんなクソ弱い日本男児を優しく立てて見守り、応援してくれるのは、今も昔も日本女性である。
これに異論を挟む人は少ないだろう(中には鬼畜としか言えない日本女性もいるとは思うが)。
なぜか?と言えば、実人生での経験でもそうだが、我々の世代は母親の読み聞かせと、TVアニメの「まんが日本昔ばなし」を見て育ったからでもある。
松下政経塾の塾生レポートが的を射ていると思うので、簡単に日本の昔話とその伝統精神とは何か?を引用すると、次のようになる。
- 日本人の中に流れる精神と言うのは極めて女性的性格であるということ。西洋は男性が主役や救世主になるが、日本は女性の優しさや美しさが救世主として強調されている。
- 日本の昔話の中では、万物すべて人間と同等に並び、女性や自然の美だけが宝物のように存在する。昔より、自然を美として大切に思い愛する心が非常に強かったことがわかる。自然愛、そして万物へ対する敬意と、八百万の神の国であることの教えまで話の延長線上に見えてくる。
- 「無」という概念が非常に強いと言うことだ。つまり「ハッピーエンド」にならずほとんどが「元に戻る」。「欲を持つ」「下心がある」ということに対する反発が大きい。故に成功するのは「無欲」という状態であることが強調される。仏教的な背景を含め、「無」や「盛者必衰」という概念を思い、それこそが人生であると教えている。また「自然体」という生き方、考え方が示されているともいえる。
- どんな存在であっても大切にすべきだ、と述べている。すべてのものには意味があり、すべてを大切にしなければいけないということを基本にしている。障害ある子や人、人間以外の生物まで大切にしていくことを基礎にしている。その結果として、人間の幸福と言うものを獲得するという展開が多くの昔話に見受けられる。
出典:「日本の伝統精神とは~日本昔話から考える~」
松下政経塾 塾生レポート(2008年09月)
これらは全て日本古来の神道世界での教えであり、「お天道様が見ているよ」「モノには神様が宿るのだから大切にしなさい」といった、子供の頃の両親の教えがそのまま神道的な教えであるのはモチロンのこと、神道的な教えや日本人として正しいといった伝統的な倫理観と精神は、古来より昔話として広く語り継がれて来たのである。
確かに、明治維新後に急速な欧化と近代化を進めた日本において、選挙権や教育機会は女性に対して開かれてはいなかった。
が、そもそも明治期の選挙権と被選挙権は特権階級に属していたし、教育に関してもアフォなほど学力が飛び抜けて優秀か、富裕な家庭の子弟にしか高等教育は開かれていなかったのも事実なのだ。
また、戦前までの封建社会で言うところの「男尊女卑」というのは、欧米でいうところのフェミニズム(女性解放思想)の対極にあるが、前提がかなり違う。
例えて言うなら、戦前までの封建社会での男尊女卑の考え方は、現在のイスラム教世界で女性が「ヒジャブ」等を被って極力肌の露出を避けるのと同様か、かなり近いと言えるだろう。
つまり、日本において生物的にも弱い野郎が、社会のクソ面倒なことや責任を一切引っ被って女性を守るという意味での男尊女卑であり、イスラム教世界でも同様に、欲望に弱い野郎が素敵な女性を襲わないように(女性が性被害に遭わないように)宗教の戒律その他で女性を守っているのである。
それらを一切理解しようともしないキリスト教世界の白人どもが「女性は差別され、抑圧されている」と決めつけ、それを開放せねばならない!と余計な使命に燃えて展開しているのがフェミニズムであり、日本でも結婚が出来ない女性を中心に、反日左派が盛んに言い立てているに過ぎないと言える。
そんなのは不条理なキリスト教世界の自国だけでやってくれ、と思う。
繰り返すが、日本は古来より神道と仏教による神仏習合の世界であって、それが日本人の文化であり、倫理観と死生観を形成したのである。
「弱きを助け強きをくじく」のヒーローではないが、日本は「困っている時はお互い様」「一緒に頑張って行こう」という文化の国なのだ。
そして古来より大自然と女性を大切にして来たし、それらは昔話として日本全国で語り継がれている。
そんな日本に欧米流のフェミニズムは必要ですか?
必要だと言うのなら、もう少し日本の歴史と文化を学んでから言って欲しいと思う。
少なくとも現代の大人気アニメとして、エヴァに登場する女性とその活躍は目を瞠るモノがあり、恐らく意図的に強調して表現されているのだと思われる。
日本人に関係なく、完璧な人間なんていない。
ゆえに、過去も現在も女性を大切にしないクソ野郎は枚挙に暇がないだろうと思う。上記はあくまでも一般論であるので、個別の案件に関して言及するものではない。
また、シングル家庭や共働き家庭が当たり前になっている現在、子供に昔話を読み聞かせる親がどの程度いるだろうか。
TVでは下らない上にどうでも良い番組しか存在せず、日本古来の昔話が若い子供世代に受け継がれなくなっているのではないか?と、密かに危惧している。
蛇足ながら、綾波レイはもとより、碇シンジや式波・アスカ・ラングレーは、親からの愛情を十分に受けることなく成長している点にも注意されたい。
現代人の精神的弱さとエヴァの世界観
個人的な話で大変申し訳ないが、私は昭和天皇が崩御された翌月の平成元年に、プロのプログラマとして社会人(正社員)デビューをした。
当時はバブル景気真っ盛りで、良くも悪くも景気が良くて日本人が狂っていた時代だと思う。
おかげで当時のリゲインのCMではないが、「24時間戦えますか」状態で、最初から無理無理なスケジュールなのに事務所に泊まり込み、システム開発に明け暮れていた。
小さなソフトハウスではあったが、当時の上司・先輩・同僚は「戦友」であり、職場でもプライベートでもよく呑んだり遊びに行ったし、大いに語り合ったモノだ。
ところが、バブル景気が弾けてしまうと、労使関係だけではなく、上司・先輩・同僚といった人間関係がギスギスしたものになった(と、私は痛感した)。
上司は責任を回避するし、先輩は仕事を教えるどころかアドバイスすらくれず、同僚は敵になった。
特に当時フリーランスで仕事をしていた時は、全方位が敵だった。
顧客は感謝ではなくクレームを言いつのり、顧客のために頑張るモチベーションは失われた。
なぜなら「失われた30年」となった時代において、顧客が満足するシステム開発の期間と予算が大幅に削られたのだから、それは当然だろう。
得られる報酬以上の仕事をするのがプロだが、それでも限度というものがある。
そしていい大人が人間不信に陥り、私もそうだったが、仕事でうつ病を発症してしまう社会が正常であるハズがない。大人は常に子供の写し鏡となるから、子供に対する影響は計り知れないだろうと思う。
日本型経営の特徴である終身雇用(実質は超長期雇用)が事実上崩壊すると、欧米流の合理主義と成果主義、それに「自己責任」による責任追及と切り捨てに、日本人の多くが窒息寸前の息苦しさを感じ、無理にでも自己防衛をせざるを得ない。
そんな世相と弱っちいメンタルしか持ち得なくなった日本人の姿が、今から四半世紀も前に登場したエヴァTV版アニメの碇シンジなのではあるまいか?と思うのだ。
まぁ、中学生当時の私は学校から逃げたけどね(笑)。
その代わり、私の場合は学校では学べない勉強を一生懸命にやったに過ぎない。
本来、私のことなどはどうでもいいのだが、あえて書くと私が中学生の頃に夢中になり、今でも太宰治真理教なんてサイトを運営するほど、なぜ太宰治にイカレたかと言えば、碇ゲンドウや碇シンジと同じような理由なのだ。
要するに「他人が分からない」という、太宰治が幼少の頃から抱えていた問題を少年だった私も抱えていたし、それは今でも変らずに他人はワカランというのが正直なところではある。
ゆえに「どうやって他人と接して良いか分からない」というのは理解するし、私もそうだったが、だからといって他人を避けたり排除するのは違うと思う。
今どきの若い人(20~30代)を含め、SNSで仲良くしてくれていたJKと話をしてみると、極論を言えば「自分から何の努力もせずに自分を理解して欲しいという怠け者」であると言える。
思考停止状態で、誰かから与えられるのをバカみたいに、ただ口を開けて待っている(ように私には見える)。
そんな人達に優しい言葉を投げかけ、傷を舐め合うような社会が正常だとも思わない。
例えば太宰治は自伝的な晩年の名作『人間失格』において、主人公は他者とのコミュニケーションに独自の「道化」を発明し、実践した。
当時中学2年生だった私は、『人間失格』を読んで雷に打たれたような衝撃を受けた。
私が「オヤジ戦隊ダジャレンジャー」などとフザケ切ったハンドルネームでこうしてネット活動をしているのは、リアルでもネットでも、下らないギャグを言ってコミュニケーションを取るしか方法を知らないからだ。
ウケようがウケまいが、ギャグを投入しなけりゃ、誰も私の言うことなんて聞かないから、という悲しい諦めなのである。
結局のところ、太宰治は『人間失格』の主人公・大庭葉蔵に「人間失格」の烙印を押し、作品を書き上げた自らは玉川上水に身を投げたのだ。何という悲劇であるか。
話をエヴァに戻すと、碇シンジも、その父親の碇ゲンドウも、私と同じコミュ障であり、好まないのに孤独を愛するしかなかったのだろう。
碇ゲンドウは、愛する妻ユイを実験でエヴァ初号機に取り込まれて失った喪失感を埋めるべく、また再会出来るように「人類補完計画」を用意周到に準備し、その意味でかなり私的に活用しまくった挙げ句、全世界と全人類を巻き添えにしやがった。
その息子の碇シンジは母親を知らず、碇ゲンドウから父親らしい愛情も受けずに育ち、父親同様にコミュ障かつ豆腐のようなクソ弱いメンタルの少年になったのは、これは致し方あるまい。
碇ゲンドウが画策し、実現化しようとした「人類補完計画」は、人類は肉体を持たず、ゆえに差別や貧困もない、恐らく過去も未来もない、精神だけの存在世界であった。
その中で肉体を失って死亡した最愛の妻ユイと再会し、永遠に生きたいのが碇ゲンドウの理想であったに違いないが、果たしてそんな世界に幸せがあるのだろうか?
私は庵野秀明監督に関してロクに知らないし、そもそもエヴァについて詳しく知らない(知ろうとも思わない)人間だが、碇ゲンドウや碇シンジのコミュ障と豆腐メンタルぶりを、若者を含む現代の日本人として投影したのではなかろうか?と思うのだ。
そして碇ゲンドウの理想世界である「人類補完計画」の実現は否定されるべき世界であり、それは(穿った見方をすれば)支那に代表される全体主義国家のような、理想だけは立派な世界ではないのか。
支那は碇ゲンドウと同様に、自分勝手な理想を実現すべく、世界の覇権を握ろうとしているのだから。
あらゆる宗教を否定して排除する支那の共産主義で全体主義的な独裁国家は別にしても、欧米とロシアのキリスト教世界(エヴァでの「人類補完計画」)を、日本的な神道世界が打ち破って世界を救うところまでがエヴァシリーズアニメの壮大なストーリーであり、「シン・エヴァ」でそれを見事に描き切ったのでは、と思う。
私は、庵野秀明監督が大東亜戦争以降の欧米とロシアのキリスト教白人世界に対して、現代の日本人が仇を討ったと思えてならない。
もっと言えば、古来からの日本の神道世界の復活を強く願い、それを強烈に示唆したと思うのだ。
本作を観た日本人やエヴァヲタクもさることながら、欧米人は本作を観てどう思うのか、非常に興味があるところだ。
果たして一連のエヴァシリーズと本作に何を観て、何を感じるだろうか。
おわりに
SNSを中心にネットで盛んに言われている「陰謀論」だが、これもエヴァの世界観との類似を見ることが出来る。
日本やアメリカ政府をNERVとした場合、裏で操っているディープステートがSEELEだと言うことが出来るだろう。
ネットやSNSで言われているディープステートの下部組織はフリーメイソンで、その上部組織としてバチカンがあり、そのバチカンを強力に支えているのがイエズス会である、といった話だ。
こういった話は、あながち根も葉もなく突拍子もない話でもなかったりする。
例えば「なぜ16世紀の日本にキリスト教が伝来したのか」といった説明にもなり得るし、なぜ豊臣秀吉や徳川家康がキリスト教徒を弾圧し、禁教にしたのか?と言えば、キリシタン大名が火薬の原料を貿易で入手するために、若い日本人女性を対価として差し出した、という史実があるからだ。
早い話が、当時のキリスト教ヘゲモニー国家との奴隷貿易をヤメさせ、国内にいるキリスト教徒がそのヘゲモニー国家のキリスト教による洗脳と指示により、(日本を侵略する目的の)国家転覆の武装蜂起を未然に防いだ、と言えるのである(同時に、地方大名の鉄砲による武力増強を禁止したと言える)。
ザックリ言うとネットの「陰謀論」は、中世の当時から現在までディープステートによる世界掌握を指摘し、新型コロナウイルスとそのワクチンにまで言及している。
最後に、映画の終盤でNERV副司令官の冬月コウゾウが真希波・マリ・イラストリアスを「イスカリオテのマリア」と呼ぶシーンがあり、これが個人的に引っかかった。
本棚から古い『聖書事典』を引っ張り出して色々と調べてみたが、やはり聖書には「イスカリオテのマリア」なる存在は登場しないし、「イスカリオテ」と「マリア」で分けてみた場合、様々な意味として捉えることが可能だ。
本稿ではあえて解説じみたことは書かないが(すでにエヴァヲタクによって書かれているだろう)、それにしても、これだけ複雑かつ難解で壮大な世界観を持つアニメを、よくもまあ創り上げたものだと感心する。
逆に言えば、この物語を創造した庵野秀明監督は、若い頃に相当な挫折や屈辱を味わったのか?とさえ思う。でなければ、これほどのアニメを創造する源泉と努力は得られないだろうから。
本稿を読んで「シン・エヴァを観てみよう」と考える人は少ないと思うが、Amazonプライムでは本作の他、劇場版3作を視聴することが可能なので、これを機にエヴァを最初から観たい人は劇場版の「序」から視聴することをオススメしておく。
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