坂口安吾による織田作之助の追悼文が70年ぶりに発掘

坂口安吾による織田作之助の追悼文が70年ぶりに発掘

2019年の今年は太宰治生誕110年の年で、太宰治が生まれた6月19日に「生誕110周年」となる。令和元年の桜桃忌(青森県五所川原市の芦野公園にある太宰治文学碑前では生誕祭)が生誕110年のメモリアルイヤーというのは、太宰治ファンとして非常に嬉しく思う。
私は太宰治検定の委員でもあるので太宰治がイチオシなのは当然だが、坂口安吾についても今年は70年ぶりに発見があったので、それを書き記しておきたい。

坂口安吾の追悼文 発掘

日本経済新聞2019年(平成31年)2月15日の朝刊社会面に「坂口安吾の追悼文 発掘」の見出しで、織田作之助の死に際して坂口安吾の「織田の死」(全文)が掲載された。

フォスフォレッセンスさんにて画像撮影&トリミング・2019年02月17日

 作家の坂口安吾(1906~56年)が織田作之助(13~47年)の死去の翌日に執筆し、新聞に掲載後は単行本や全集に所収されず存在が埋もれていた追悼文が約70年ぶりに確認された。織田の死に絶句し衝撃を受けた様子がうかがえる。2月17日の安吾の命日「安吾忌」を前に、太宰治とともに「無頼派」と呼ばれた作家の交流を物語る一文として注目されそうだ。

 追悼文は「織田の死」と題され、47年1月12日付の「時事新報」(産経新聞に吸収)東京版に織田の訃報と並んで掲載された。文末に「十一日夕記」とあり、織田が亡くなった翌日、通夜の晩に書いたとみられる。
 時事新報は国立国会図書館に収蔵されていた。
 「織田の死」では46年11月に織田、太宰と行った座談会を回想。その速記録に織田が「(自分が)大いに馬鹿(ばか)に見えるよう加筆したことを紹介し、「見上げた(戯作者)根性だ」「才能は谷崎(潤一郎)以来、そして、谷崎以上」と絶賛している。
 「病気は(仕事を控える)むしろ良い時期だと思っていた」と書き、突然の悲報に「才筆の片鱗(へんりん)を残したゞけで永眠したとは」と結んでいる。
 安吾織田追悼文は、自らの文学論を表明したことで知られる「大阪の反逆」など2編がこれまでに知られているが、「織田の死」は最初に書かれたものだ。
 安吾の評伝を著し、全集の編さんにも携わった文芸評論家の七北数人さんは「内容が『大阪の反逆』の一節とほぼ重なっている。最も早くに書かれたデッサンといえる」と分析。谷崎を引き合いに出した賛辞について「他の作家との対談で同様のことを語っていたが、文中に残したのは『織田の死』だけだろう。貴重な資料だ」と話す。
 大阪大大学院の斎藤理生准教授(日本近代文学)は「安吾織田の通夜の晩、一人で酒を飲んで悼んだというのが定説だった。こんなしっかりした文章を書いていたとは。大変驚いた。小説の面白さを追求する織田の『戯作者根性』は、この時期の安吾の主張そのものだ」と指摘する。

出展:日本経済新聞2019年(平成31年)2月15日朝刊社会面4版

たまたま三鷹のフォスフォレッセンスさんへお茶を飲みに遊びに行ったら、その日が安吾忌で新聞記事のコピーを見せてくれたので、二重にΣΣ(゚Д゚;)ビクーリ!!

私はまず「織田の死」全文を読み、「あれ?これは読んだような気がするな」と思い、店主の駄場さんとおしゃべりしたが、記事本文を読むと、なるほど七北数人さんが言っておられるように「大阪の反逆」の一節とほぼ一緒なので「読んだような気が」しただけだった。
ともあれ、70年ぶりに発掘された「織田の死」全文を読んでいただきたい。

織田の死

「織田の死」

坂口安吾

先日織田と太宰と僕との座談会があつて、織田が二時間遅れてきたので、太宰と僕は酒を飲みすぎて座談会の始めから前後不覚という奇妙なことになつたが、この速記を編集者が持つてきた。織田と太宰はすでに速記に手を入れていた。
読んでみると、織田の手の入れ方が奇妙である。座談会の手入れというものは、言い足りなかつた意味を補足するのが通例だろうが、織田はそういう手の入れ方もしているけれども、全然喋らない言葉、つまり三味の合いの手のような文句を書き入れている。実際には喋らなかつた言葉であり、あつてもなくともよい言葉なのだが、それがあると、読者が面白がつたり、たのしんだりするに相違ない馬鹿馬鹿しい無意味な言葉だ。
それを書きたすことによつて彼が偉く見えるどころか、むしろ大いに馬鹿に見える。あべこべに他の二人が引立つような書き入れなのだ。尤も逆に自分が引立つような書き入れもあるが、他より偉く見せるのが目的ではないので、要するに読者をたのしませてやろうというのが目的なのである。
こういう奇妙奇天烈な魂胆というものは、自ら戯作者を号する荷風先生などにも見当らぬ性質のもので、見上げた根性だと感心した。彼は書きすぎた犠牲者で、彼自身も身を入れて一つの作品に没入したいという意志をもらしていたのであり病気はむしろ良い時期だと思つていた。
あの徹底的な戯作者根性に肉体質の思想性というものが籠つたなら大成すべき稀有な才筆家で、その才筆は谷崎以来、そして、谷崎以上のものであつたが、才筆の片鱗を残したゞけで永眠したとは。

(十一日夕記)

ダザイとアンゴとオダサクと

太宰治坂口安吾織田作之助の座談会(司会・進行役は平野謙)は1946年(昭和21年)11月25日に実業之日本社主催で開かれたもので、『文学季刊』第3輯に「現代文学を語る座談会」と題して掲載された。さらに同日、同じく3人で改造社主催の座談会にも出席し、この記録はそのまま『改造』には掲載されず、1949年(昭和24年)1月の『読物春秋』新年増大号に「歓楽極まりて哀情多し」と題して掲載された。座談会の後、3人は銀座のバー「ルパン」にシケ込んだのである。
この無頼派3傑が座談会や織田作之助の死をテーマに書いた作品を時系列に挙げると、次のようになるだろう。

  1. 織田作之助可能性の文学」(初出:『改造』・1946年(昭和21年)12月)
  2. 坂口安吾織田の死」(初出:時事新報・1947年(昭和22年)1月12日)
  3. 太宰治織田君の死」(初出:東京新聞・1947年(昭和22年)1月?日)
  4. 坂口安吾未来のために」(初出:読売新聞・1947年(昭和22年)1月20日)
  5. 坂口安吾私は誰?」(初出:『新生』第三巻第二号・1947年(昭和22年)年3月1日)
  6. 坂口安吾大阪の反逆」(初出:『改造』・1947年(昭和22年)4月1日)

織田作之助は座談会後の「ルパン」が引けた後、徹夜のカンヅメで「可能性の文学」を執筆した。この「可能性の文学」に次の記述がある。

私は目下上京中で、銀座裏の宿舎でこの原稿を書きはじめる数時間前は、銀座のルパンという酒場で太宰治坂口安吾の二人と酒を飲んでいた――(中略)
それより少し前、雨の中をルパンへ急ぐ途中で、織田君、おめえ寂しいだろう、批評家にあんなにやっつけられ通しじゃかなわないだろうと、太宰治が言った時、いや太宰さん、お言葉はありがたいが、心配しないで下さい、僕は美男子だからやっつけられるんです、僕がこんなにいい男前でなかったら、批評家もほめてくれますよと答えたくらい(後略)

そして太宰治は「織田君の死」でこう書いている。

はじめて彼と銀座で逢い、「なんてまあ哀しい男だろう」と思い、私も、つらくてかなわなかった。彼の行く手には、死の壁以外に何も無いのが、ありありと見える心地がしたからだ。
 こいつは、死ぬ気だ。しかし、おれには、どう仕様もない。先輩らしい忠告なんて、いやらしい偽善だ。ただ、見ているより外は無い。
 死ぬ気でものを書きとばしている男。それは、いまのこの時代に、もっともっとたくさんあって当然のように私には感ぜられるのだが、しかし、案外、見当たらない。いよいよ、くだらない世の中である。
(中略)
彼のこのたびの急逝は、彼の哀しい最後の抗議の詩であった。
 織田君! 君は、よくやった。

織田作之助は「可能性の文学」執筆から間もない翌12月に結核から大量の喀血をし、現在の東京慈恵会医科大学附属病院に入院するも、翌年1月10日に急逝してしまう。享年33歳という若さだった。
坂口安吾は今回発掘された「織田の死」や、その後発表した「未来のために」、「私は誰?」、「大阪の反逆」と立て続けに織田作之助を悼みつつ、分析や批判を交えて文学について語っている。それだけ織田作之助の才能を認め、そして惜しんだ証左だろう。
織田作之助も「可能性の文学」で、そして坂口安吾も前述の作品で、太宰治も死の晩年の「如是我聞」で志賀直哉批判をしている。これは偶然の一致でも何でもなく、この無頼派3傑の文学の対極にある共通の作家が志賀直哉であるからだ。
当時「文学の神様」と称された志賀直哉、自称「文学の鬼」の宇野浩二、私小説の大家の上林暁、受賞はずっと後になるがノーベル文学賞の川端康成の文学が、今現在、文庫本でどれだけの作品が読めるだろうか?当時の人達はこれらの作家を読んでいただろうが、現代を生きる私達にまでその「神通力」は通用しなかった。徐々に読まれなくなり、今を生きる我々が読もうと思った現代では、大半以上の作品が文庫で買って読めないほど読まれていないということだ。
それに比べ、太宰治坂口安吾織田作之助の文学は時代を超えて今でも読者がいて読まれ続けているから、文庫で買い求めて読めるのである。何故か?それはこの偉大な無頼派3傑の作家は自ら戯作者たらんと欲し、己の文学にイノチガケで取り組んだからだと、私は考える。その真心が作品に籠もっており、我々読者はその真心に「心を震わせる」からだろうと思う。ゆえに、この3人の作家は「ロック」なのだ、と言えるだろう(ロックとはそもそも心を揺さぶられるの意である)。
ともあれ、太宰治は読者の好悪がハッキリ分かれるけれども、『人間失格』は新潮文庫の累計発行部数で夏目漱石の『こころ』とトップ争いをするほど発行され(「新潮文庫 累計発行部数トップ10日本著者販促センター・2011年08月24日)読まれ続けているが、坂口安吾太宰治ほどの人気はなく、織田作之助に至っては名前さえ知らない人の方が多いのではないか、と思われる。個人的に坂口安吾の人気の低さもそうだが、織田作之助の評価が低い(人気がない)のが残念でならない

おわりに

冒頭でも述べた通り、今年は太宰治生誕110年であり、太宰治検定でも色々と企画がある中で、相変わらず経済的に厳しい状況である。そんな中、私の提案でBOOTHにて公式のオンラインショップを開設し、2017年の検定開催時のBotも再度活用して周知・拡散を始めたところだ。

そんな中、これまた70年ぶりに太宰治の「お伽草紙」の直筆完成原稿が見付かったというニュースが飛び込んで来た(「太宰治の「お伽草紙」の完全原稿発見 初公開へ産経ニュース・2019年04月05日)。

間もなく平成が終わり、新たな令和時代が始まる。ますます昭和は遠くになりにけり、ではあるが、未だにこうした文学的発見があることを考えると、太宰治坂口安吾織田作之助が生きた時代はそんなに大昔ではないと改めて感じる。
どうしても人気からして太宰治ばかりがクローズアップされ勝ちではあるが、ぜひ坂口安吾織田作之助の文学にも目が向けられ、もっと大きなスポットライトが当たることを願う次第である。

 

 

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