安倍晋三首相は2016年9月、内閣官房に「働き方改革実現推進室」を設置し、働き方改革の取り組みを提唱して今も様々な議論を呼んでいる。高度プロフェッショナル人材、いわゆる「高プロ」について、左派からは糾弾に近いことまで叫ばれているが、政策はともあれ、「働くこと」について今一度考えるべきではないだろうか?
なお、ここでは政府の「働き方改革」の政策等について述べるつもりはないので、知らない人はGoogle先生に聞くように。
失われた20年
今や当たり前に言われる「少子高齢化」と将来の「労働人口不足」だが、なんでそんな事態に陥ったのか?と言えば、我々団塊ジュニア世代が、徹底的に冷や飯を食わされたからだ。
まず、団塊の世代の子供達なので、圧倒的に人数が多い。私が入学した中学は、県内でも4番目ぐらいのマンモス中学校だったが、1クラス40名前後でクラスは11組まであった。そして一般的に高校受験や大学受験では「受験戦争」と呼ばれる熾烈な戦いを強いられた。
これはあくまで個人的なことなので、良い子は真似をしないように。
私はひたすらパソコンでのプログラミングと太宰治文学に熱中していたので、誇張でなく中学の学業はほぼ放棄していた。まず、学校には行かなかった。親しい友人は「年に2回は夏休みを取る男」と私を評していた。だが、何故か中学の担任を含め学校の先生とは仲が良かったので、「なんだ、○○はまた休みか」程度で、タマに出席すると「おお、良く来たな」と言うぐらい。先生の個人的なパソコンの疑問や、職員室に導入されたばかりのパソコンは、私が一番良く知っていて解決していたのだ。
ともあれ、高校受験はある意味戦争であったし、北辰テストと呼ばれるテストを何度も受けさせられ、そのたびに偏差値がどうの、と話題になった。当然、進学出来る高校も偏差値によって決まる。私は母を含む三者面談もしたが(その時になって学校に行っていないのが母にバレたが)高校はどうでも良かった。担任に言われるがまま、滑り止めの私立を2校、本命の県立を1校選んで貰うと、後は願書すら出さずに学校をサボりまくった。
結論から言うと、偏差値50ぐらいの私立と県立高校を受験して全部合格したし、県立高校に進学したのだが、どうでも良い。結果から言うと、2年次で中退したのだから。
私の父が中学2年生の頃から病気でほぼ寝たきりになり、最後の父の応援で私はパソコンを買ってもらい、将来は絶対にプログラマーになると決めていた。父が亡くなったのは高校2年生の夏だった。
ともあれ私は高校を中退し、いきなりプロのプログラマーとして正社員雇用された。あれは1989年(平成元年)の2月で、日本がバブル景気真っ盛りの頃であった。
それから3~4年も経つと、バブル景気は徐々に尻すぼみになって弾けた。それからがいわゆる就職氷河期であって、私と同い年の高卒はバブル景気で入社出来たが、専門卒で就職がやや怪しくなり、大卒は門前払いを喰らわされることになった。
また、80年代後半からリクルートがアルバイト・就職雑誌で「フリーター」を推奨していたこともあったと思うし、私の年代で高校中退者は年に1万人を越えていた。だから、と言えないところもあるが、就職氷河期で正社員になれなかった人も大半はバイト・パート・契約社員等、非正規労働に就くことになったと思われる。
長く続いた景気の低迷と日本経済の停滞を指して、後年「失われた20年」と言われるようになった。
消えた第三次ベビーブーム
団塊の世代が戦後の第一次ベビーブーム(当時は戦時中で「産めよ・殖やせよ」の時代でもあった)で、その子供世代で第二次ベビーブームが我々団塊ジュニア世代である。
当然、我々世代が結婚して子供を産み育てれば、第三次ベビーブームとなるハズだったし、少子高齢化はもっと先に延ばせたハズである。が、現実はご存知の通りだ。
まず、我々世代は詰め込み教育と受験戦争にさらされ、社会に出たら不景気でマトモな職業に就けず、低年収で親世代とは真逆の底辺生活を強いられることになった(私個人はそうではないが)。こんな不条理があるか!と叫んでも、今のようなネット万能時代でもなかった。
結婚しても、家事・育児・仕事を両立せねばならず、保育園の入園から小学1年生の壁をどうするか?子供1人当たり産み育てれば大学まで公立だけで学費が2千万円とかの現実だ。年老いた両親の介護もしなければならないし、結婚したパートナーがどれだけ理解・援助をしてくれるか??
だったら結婚しない生き方(または、現在の生活で一杯一杯で結婚までは考えられない人もあるだろう)や、結婚しても高齢出産になるので子供を諦めるケースも多いだろうと思う。
親世代が決まって言うと思われるのは「私達の世代は今のように便利な世の中ではなかったし、国や自治体からの補助もなかったけど、お前達を産み育てたではないか」と。ひとつだけ言えるのは、親世代のように、人生を差し出せば一生面倒を見てくれる会社が、今はほぼ無いということだけだ。
結局のところ、失われた20年の余波もあって、第三次ベビーブームは発生しなかったのだ。
労働力不足について
以上のことから、18歳年齢人口は下降の一途を辿っており、現在でも景気が良くて人材不足だと言われているが、今後はさらに人口が減るので労働力不足だと言われている。
ホントか??
確かに18歳年齢人口は減っており、将来の新卒社員は現在より少ない人数になるだろうが、新卒社員だけが労働力か?
結局のところ、企業は中途採用社員を新卒入社社員よりは大事に考えていないということではないのか。もっと言えば、失われた20年で疲弊し、今や中年になった団塊ジュニア世代の大多数を戦力とみなしていないのではないか。非正規労働しかしていない人間は、正社員として戦力にならないと言っているように、私は思えてならない。労働力が本当に不足しているのならば、非正規労働に従事せねばならなかった団塊ジュニア世代を雇用すれば足りるだろう。人数は多いし、大卒者だって多いのだから。
そして言わねばならないのは、精神障害者とニートの存在だ。精神障害者は私のようにIT業界で働くエンジニアに非常に多い。また、IT業界以外でも失われた20年による劣化した雇用環境で、いわゆるブラック企業に勤めてしまったばっかりに、精神を病んで再起不能になる人も多い。そしてニートだが、これも我々団塊ジュニア世代に占める割合が多く、50代まで含めると約50万人がニートであると言われている。無論、学業の途中や就業して精神障害者になってニートになった人も多いだろうと思う。
これらの人々は、今は親の扶養だったり生活保護で命をつないでいたりするが、国や企業が本気になって取り組めば、本来なら労働力として企業や国家に貢献出来る可能性がある日本人なのだ。それをまったく放置して「労働力不足」とは笑わせるとしか言いようがない。それで移民とか、もはや意味不明である。
日本人の生産性の低さについて
我々団塊ジュニア世代は詰め込み教育と受験戦争で疲弊し、就職したらバブル景気(またはブラック企業や非正規の仕事)で死ぬほどこき使われ、一体「生きていて何が幸せなのか?」と思わずにはいられない。私は中学生の頃から太宰治を読み始め、文学に傾倒するところがあった。大学で勉強することができて(商学部だから仕方ないにせよ)「フランス文学」の講義でフランス文学が勉強出来る喜びは裏切られたけれども、一般の大学生ですら自国の文学を読まない現実を知った。では、なぜ大学で勉強しているのだろう??
いや、もっと言えば、なぜ仕事をして生きているのだろう??
結婚して(またはシングルでも)子供が居る人は、その子供が生き甲斐かも知れないが、我々世代はクドイようだが、第三次ベビーブームを起こせなかった世代だ。私を含め、子供のいない人は、何を生き甲斐にすれば良いのだろうか??
要するに、目的がない行為に人はそれほど注力をしない。それが学校の勉強であれ仕事であれ、目的がなければそれだけお座なりのことしかしないし、生産性も低いに決まっている。
必ずと言って良いほど、日本と欧米の生産性を比較され、日本の生産性の低さを指摘されるが、ではなぜ日本の生産性が低いのか、誰か分かり易く解説した人があっただろうか。
私が最近感じる風潮として、ひとつ提起したいのが「自分さえ良ければ」であると思う。
大学の商学部で私は全体最適について学んだが、とどのつまり個々人の「自分さえ良ければ」の局所最適が横行しているように思われる。それで企業が、ひいては日本が良くなるハズはない。また、大学生になって文学も読まないようでは「人生についての考察」があるとは思えない。今はそれだけ企業や日本に日本人がコミットしていない、とも言えるのだろう。
考えてみて欲しいのだが、誰でも進学するから高校に進学し、みんな大学に行くから大学に進学するのだろうか?そして社会に出たらなるべくイヤなことをせず自分の趣味も楽しみたいからほどほどに働くのだろうか??
私は、私と私世代を含む日本人に、「生きる目的意識」が欠如しているから、いつまで経っても生産性が低いのだと思う。
働き方改革について
上述の通り、失われた20年で置き去りにされた中年と、精神障害者や引きこもりニートを労働力として使わないで何が「働き方改革」だ!というのが私の意見であるが、それと同時に東京都に一極集中している現状を解放しないで「働き方改革」もないものだ。
20世紀まででシチズンと都市形成の時代は終わったのだ。インターネットが本当に「インフラ」であるなら、ネットを使ってどこでも仕事が可能なのが本当だろう。無論、飲食店や、設備が必要な工場やそれに準ずる店舗はこれに限らないが、いわゆるサラリーマンが1時間も2時間も満員電車に揺られて会社に出勤するのはナンセンスだ。
そういった意味で極論を言えば、企業とその従業員に、働き方を改革するマインドがどれだけあるか?だと言える。会社であれば労務管理をどうするか?だろう。従業員にしてみれば、どこまでが会社の仕事なのか、どこからがプライベートな時間なのか?その線引きが難しいと思われる。
私はフリーランスで受託の仕事を自宅でやっていた事もあったが(なので母の介護が出来たが)大変なものだった。私個人へ直接電話がかかってくるので防波堤がなかったし、休みはセルフコントロールなので、なかなか難しく休まることはなかった。自営業者としての自覚がありつつ、フリーランスを12年やった私でさえ、この有様だった。
私が無能であったかも知れないが、サラリーマン根性の社畜に出来るとは思えないし、会社も労務管理コストが無視出来ないほどになるだろう。やはり性善説では社会はうまく行かないやね。
で、何を改革するって?
おわりに
日本人に「生きる目的意識が欠如」しているのではないかという仮説は有効であると思う。別に明確な人生の目的がなくたっていい、生きていて良いと思えるような人生を生きていますか?ということだ。より良く生きるためには、極論を言えばそれは哲学の領域に入ってしまうが、少なくとも自分の頭で考え、行動するしかないだろう。文学云々は分かり易く用いたに過ぎない。
世の中は横着な人が多く、自分で色々考えるより、正解と思える考えに飛びついて自分で考えない人が多い。文学を読むというのも、国語力があって理解力と思考力が必要だ。文学によらず本を読んで考えないのであれば、その人は自ら考えることを放棄したバカ者であると言えるだろう。
・・・まぁ世の中はよく出来ているもので、頭の良い人も悪い人も、また今現在が労働力不足だ何だと言っても、将来的に結局はITの力(多分にAIの応用だと思うが)で何とかなるだろう。人類はその英知を超えた進歩は出来ないし、生活や仕事もそれに準ずるのだから。ただ、人間としてより良く生きるのは、ITやAIとは全然関係ない話である。
17世紀フランスの哲学者ブレーズ・パスカルに『パンセ』があり、「人間は考える葦である」の言葉がある。今一度、噛みしめたい言葉だ。力だけなら馬の方が上だし、忠実なら犬の方が上だ。考えない人間に、価値がないのは自明だろう。
余談ながら、パスカルは歯車式計算機「パスカリーヌ」でも知られている。スイスのチューリッヒ連邦工科大学が教育用に開発したプログラミング言語として、Pascalは形を変えながら今も使われていたりする。
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