ここ数日、眼精疲労がハナハダしく、SNSや自分が運営しているサイトの更新があまり出来ないでいる。なるべくパソコンを開かず、積んだままにしている本の読書に時間を割いているが、最低限メールやチャット系のメッセージは読んでいる。
そこで、「これは!」と思うネット記事を読んだので、無理をしながら駄文を書いてみようと思う。
この記事では、「暗黙知」や「形式知」と言っても一般のビジネスでは使いにくく、ビジネスパーソンにはピンと来ないので、なるべく動詞的な分かりやすい言い方として、「暗黙知」を「臨床」とし、「形式知」を「研究」と言い換えることを提案している。その上で「臨床」と「研究」のバランスは非常に取りづらく、よって「どちらにも共通の問い」を立てることによって共有・進化させるのが必要だろうと述べている。そのためには「メンター」が必要であり、現在は「メンター不足」の時代ではないか、と投げかけているのだ。
個人的に、SNSやネットの進展によって「暗黙知」は「形式知」へ進みつつあるような気がするが、確かに「メンター」の存在は圧倒的に少なく、また、自分のみの経験や知見を「価値のあるもの」として「形式知」へしようとしない抵抗もあるのでは?とも考える。
それでも私は、個人が持つ「暗黙知」(臨床)を、より明確な「形式知」(研究)に昇華させ、共有する仕組みとして(特に保守系活動において)PukiWikiを提案し、その普及に独自かつ地道な活動をしているが、やはり難しいと思っている。それにはまず、私自身がメンターになる他ないだろう。
大ザックリに言って、誰もが分かりやすい形で「臨床」と「研究」を実践しているのが、大学の教員(講師・助教・教授)であると言えるだろう。
自らの「研究」を講義やゼミといった形で学生に展開する「臨床」をやっているからだ。講義では自分のゼミ生以外の学生も多いし、どちらかと言えば、ゼミ生の「メンター」(指導者)ともなり得るゼミでの教育が、より「臨床」に近いような気がする。そういった意味で、自分のゼミや研究室(研究科)を持てる教授こそ、非常に分かりやすい形で「臨床」と「研究」を実践している存在だと言える。
ただ、「臨床」と「研究」の中で、それを「共通の大きな問い」に可能なのは教授であり、ゼミ生はその中で取り残されがちな気がする。無論、優秀なゼミ生や、大学院でマスターやドクターにいる学生は(教授に近い位置にいる分余計に)、学部のゼミ生よりも遥かな「気付き」が得られるに違いない。しかし残念ながら、大学(大学院)の教授は誰しもが「優れたメンター」たり得ない現実もある。
「メンター」に関しては、記事でも紹介しており、私も購入して読もうと思っていたのが、次の『1兆ドルコーチ--シリコンバレーのレジェンド ビル・キャンベルの成功の教え』だ。
1兆ドルコーチ――シリコンバレーのレジェンド ビル・キャンベルの成功の教え
「メンター」に求められる要素は、非常に多岐に亘ると思う。それに、ビル・キャンベルのような人は現実的になかなか存在しない。
少なくとも、現在の新自由主義が分断した資本主義と人間のあり方、個人と個人、個人と家庭、個人と組織、個人と地域社会との分断が顕在化している現代において、日本社会にありがちな「飲みニケーション」すらも否定されているのでは、世代間の分断を埋めるのは難しい。
もっとも、「保守」が自己矛盾に陥っているという現象は、日本に限ったことではない。それは、欧米においても同じである。
1994年、イギリスの影響力ある政治哲学者ジョン・グレイは、保守の死を宣言した。
なぜ、保守は死んだのか。それは、「新自由主義」あるいは「市場原理主義」というイデオロギーと結びついたからであるとグレイは言う。
新自由主義とは、何か。
新自由主義とは、簡単に言えば、「自由市場こそが、資源を最も効率に配分し、経済厚生を増大する最良の手段である」という信念の下、政府による市場の介入をできるだけ排除し、経済活動の自由をできる限り許容すべきであるとするイデオロギーである。その理想を実現するため、新自由主義者は、「小さな政府」「均衡財政(健全財政)」「規制緩和」「自由化」「民営化」さらには「グローバル化」といった政策を主張する。出展:中野剛志『保守とは何だろうか?』NHK出版(2013(平成25)年10月10日 第1刷)P12~P13より抜粋
※本文太字は筆者(中野剛志)で、リンクは小生(オヤジ戦隊ダジャレンジャー)
日本ではとっくに「保守は死んだ」と言わざるを得まい。では、どうするんか?ということだ。私は答えが分からないまでも、ひとつの活動として(クドイようだが)PukiWikiの拡充と普及に腐心している。「臨床」(暗黙知)と「研究」(形式知)に、1ミリでも私がやっているPukiWikiでの活動がお役に立てたら嬉しく思う。誰かが何かを始めなければ、何も始まりはしないのだから。
特にこのコロナ禍にあって、個人や仕事(学生・生徒・児童にとっては「教育」)の大転換期にあるからこそ、余計に本稿のテーマは重要だと思っている。
そんな一日だった。(´ー`)y-~~oO
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