最近また、自分が何をしたいのだか、良く分からなくなってしまっている。
50代がリアルな壁として眼前にしている年齢のせいか、まず目がダメになり、コロナ禍もあって外出が極端に減ったので、体力も信じられないほど落ちた(ついでに、体重も落ちた)。
ここ1~2年ほどは、特に集中力の維持も難しくなり、また、「ちょっとド忘れ」では済まないような物忘れ(簡単な固有名詞が中々出て来ずに、その固有名詞が持つ周辺情報や、どうでもいいイメージばかりが無駄に出てくる)をしている。
要は、誰かとの会話で「アレだよ、アレ。何だったかなぁ?ホラ、アレなんだけどなぁ」と、会話が円滑に続かない感じ、正にアレだ(笑)。
私は本職で未だにガンガンにコードを書くプログラマでもあるので、集中力が続かず、雑念に思考が千々に乱れると、元の場所(問題)に戻すのが大変になっている。
私の場合は、システムの設計でもコーディングでも、解決すべき問題について、30分から1時間ほど考えたり調べたりして、答えが出そうにない(解決しそうにない)と、別の作業をやって解決すべき問題から距離を置き、新たな視点を得て考え直すという手法を取る。
他に解決すべき問題を着手することで、別の問題を見つけたり、思わぬ解決法が閃くからだが、これが加齢と共に思考が千々に乱れるのだから、手が付けられない。
恐らく集中力が続かないから、思考する時間が短くなり、思考が乱れるのだろうと思われる。
そんな私だが、目がダメだろうと、集中力が続かなかろうと、読書だけは子供の頃からの趣味で習慣だから、絶対にヤメない。
たとえ大好きな酒を年に何日か呑まないことはあっても、トイレには何かしらの本(マンガ本の場合もある)を必ず持ち込み、便座に座って爆撃しながら、平均して20分ほど読む。これは今まで一日たりとも欠かしたことがなく、特にゲリをした日は読書が捗(はかど)る。
最近読んだ本の中で、痛く感銘した本は、中野剛志『保守とは何だろうか』だ。
ここで私は、『保守とは何だろうか』で述べている、「保守」ならびに「保守主義」について、自説を開陳する気はない。
ただ、端的にザックリ言えば、『保守とは何だろうか』における私の理解は、理性から出発している、合理的に抽象化した理論が教えるところの、普遍的かつ画一的な「自由」には、「過剰を均衡させる力はない」ということだ。
それは例えば、「自由経済市場は過剰な需要と供給を均衡させる」といった、現実には発生し得ない理論である。
だからこそ、保守や保守主義は必要となるものの、残念ながら経済学もしくは政治学といった、抽象化した概念や一般化した理論体系は、持ちようがない。
ゆえに、新自由主義の誤りについて、保守主義は「便宜的」かつ「伝統的」な方法で、漸進的に解決する保守主義的政治手法と、その政策の実施が必要となる。
詳しく知りたい方は、ぜひご一読をオススメする。
さて、私は本職のSEで、実際にコードを書くプログラマだから、基本的に一切の無駄を省く「合理主義者」である。
何故かと言えば、小さくて速くて保守が容易な、合理的に作られたプログラムは「正義」であり、システムとは、そういったプログラムが有機的に結合した集合体であるからだ。
コンピュータシステムによって現実の諸問題を解決する場合、特に営利企業においては、無理・無駄・ムラといった問題を、合理的に解決したい欲求から発せられる。
そんな仕事を都合30年もやっていれば、合理主義者にならない方が、どうかしている。
そこで私はどうなったか?見事にメンタルをブッ壊してうつ病を発症し、めでたく精神障害者となった。
・・・なんだそれ?
30歳を過ぎてうつ病を発症しながら、生活のために仕事としてSEをやり続け、10年も苦しい闘病が続いた。そして、結果的に私は全てを失ったのである。
この合理主義の先の、その果てにある破壊とその矛盾に、私は大いに悩み、苦しんだ。どうしたら解決が出来るのか、皆目見当が付かないからだ。
そして、ついに諦めた。私ごとき浅学非才の人間が、いくら考えたって、または試行錯誤を繰り返したところで、所詮は無駄なのだ。だから、私は「自分の幸せだけ」を考えるように、ちょっとずつ生活と思考の軸を移して来たのである。
結局は、カネが欲しいとか、名誉が欲しいとか、有名になりたいとかというのも、大学の商学部や経済学部の初歩で教える「マズローの欲求5段階説」で、理論的な説明がつく。
簡単に言えば、これは「欲求の過剰」であり、過剰な欲求が段階を踏んで、人はピラミッドの上位を目指す。
この合理的な「過剰な欲求」を、フランス国旗的な「自由・平等・博愛」の精神で、リベラル的な「自由」を拡大していけば、その「過剰な欲求」は、単に欲求が満たされるだけでは決して均衡に向かうことはない。
つまり、「マズローの欲求5段階説」の場合は、一般的に「経済の限界効用」で理論的に説明され、何となく理解されているに過ぎないのだ。
思うに、「欲求の過剰」の行き着く果ては、個人を守銭奴的な拝金主義者にするだけだし、個人による過剰な欲求が均衡されない場合は、余計かつ無謀な野心を宿らせ、その実行に向かわせる。
また、この「欲求の過剰」は、そういった拝金主義者のような経済的な成功を「社会的な成功」とみなす、現在のイビツで民主主義的な格差社会を招くだけであって、過剰な欲求は均衡されないまま拡大し、深刻な危機や社会の破壊をもたらす。実際、現在の日本が正にソレではないか。
例えば、私のような読書が好きな「知的好奇心の過剰」の場合は、「マズローの欲求5段階説」で言うところの「欲求の過剰」ほど、害悪はないかも知れない。
が、「知的好奇心の過剰」であれ、何の過剰であれ、過剰を均衡させないと、過剰な部分の行き着く先がない。いや、過剰な部分は悪い方向に流れて拡大するのが普通だろう。
だからこそ『保守とは何だろうか』で紹介し、解説し、教えているサミュエル・テイラー・コールリッジの思想と哲学を知り、「保守とは何か」を考える必要がある。端的に言えば保守主義こそ、「過剰を均衡に向かわせる唯一の道」だと思うからだ。
しかし、仮に私が持つ「あらゆる過剰」を、私なりの保守主義によって「均衡できた」として、さて、その先に一体何があるのだろうか?
私には、全くちっともサッパリ分からない。だって、私には子供はおろか、家族と呼べる人は、誰一人いないのだから。
私の場合は、本当に身も蓋もない結論しか存在し得ないように思うが、私とは違う有為な人の、「過剰の均衡」について考える「わずかなヒント」にでもなればと、微かな希望を本稿に託したい。
・・・え?無理ですか?そうですか。(´・ω・`)
そんな一日だった。(´ー`)y-~~oO
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