愛と愛国についての私的考察~愛国のススメ~

愛と愛国についての私的考察~愛国のススメ~

私の思想については、10代の頃から「政治思想とチ○コは中道やや右寄り」と言って来たが、ここ最近では「愛国」と言うようにしている。どうも「右派」や「保守」という言葉は正直古いし、イメージが良くないからだ。

右翼・左翼はフランス革命が発祥

まぁ有名な話なので知らない人はいないかもだが、ザックリと。
フランスで憲法を新しくしようとしたとき、「議会が制定した法律に対し国王の拒否権を与えるかどうか」が激論になった。で、国王の拒否権(強い権限)を与えるべきと考えた議員は、扇形の議席のうち議長から見て右側に陣取り、逆に国王の拒否権を否定すべき(国王の権限を制限しよう)とする議員は、左側の議席に陣取った。要するに、国王の拒否権は従来通りで良いではないか=右翼(右派)・保守であり、逆に国王の権限を改革しよう=左翼(左派)・リベラルと呼ぶようになった。

ふと思ったが、フランス革命は世界的な市民革命で(ロシア革命市民革命とも言えるが)、いわゆる社会主義共産主義社会の実現の革命はプロレタリア革命であって、一般には区別される。現在の社会で、特に日本においてプロレタリア革命団塊世代の夢と消え、ソ連ベルリンの壁も崩壊した。バカパヨは、ひょっとしてフランス革命のような市民革命を夢想しているのだろうか?バカパヨ有名人はお金持ちが多いしね。

右翼・保守のイメージの悪さ

私はこれらの言葉には良いイメージがないのだが、どうだろうか?

右翼(右派)

私は市ヶ谷や四ッ谷で何年か仕事をしていたが、市ヶ谷の現場は防衛省の近くだったので、毎日のように街宣車が飯田橋方面から防衛省の前を通って四ッ谷方面へ流していた。まるでドライブでもするように。大音量の軍歌が近づいては遠のくドップラー効果(笑)。
埼玉南部では私達が恐らく最後の世代だと思うが、特攻服を特注して愛羅武勇(アイラブユー)のような文句の刺繍はモチロン、背中には

どうせ散りゆく命なら
桜のように美しく
薔薇のように華やかに
咲かせて魅せよう愛の華
我が人生に悔いは無し

なんて刺繍文字が入っていて、改造バイクで集団暴走して警察の検問を「特攻」する、というね。ホントにアフォなイメージしかない(つーか、高校時代はそうゆうのが友人だった)。

保守(派)

  • 旧来の風習・伝統・思考等を重んじる
  • 新しいこと(もの)を受け入れない
  • 頑固

これはあくまで私見だが、保守の言葉が持つ意味は大事なのだけど、それだけなの?というイメージが強い。例えば「田舎は保守的だ」のような使われ方をするが、そこには消極的かつ受動的なイメージもあり、とても進取の精神はないと感じる。何となく排他的なイメージもあるが、如何。

「愛国」ではどうだろうか

日本では単純に右派・左派と思想を分けて対立している構図ではないので余計ヤヤコシイのだが、これからは愛国・売国ノンポリ(能なし)で分けた方が簡単だし、良いと思うがどうだろう。無論、排除すべきは売国で、軽蔑すべきはノンポリである。
言葉のイメージも悪くないし、愛国であれば自国の風習や伝統、考え方を重んじるのは当然である。その上で、時代に即して解決しなければならない問題については進取の精神で当たって行けば良い。積極的かつ能動的な意味合いにすることが出来るだろう。

愛の表現の難しさ

世界中で、恐らく、きっと、多分、parhaps、maybe、日本人ほど「愛」を口に出して言わない民族はいないだろう。「愛国」と言ってみて、やはり多少の気恥ずかしさがないわけでもない。
日本への仏教伝来はザックリ6世紀だが、この仏教を政治利用して中央集権国家の礎を作ったのが、十七条憲法でおなじみ(?)の聖徳太子だ。私も葬式仏教程度の知識しかないので詳しく語れないが、仏教はザックリ「悟り」に至る修行プロセスだが、「愛」というのはその最大の敵なんですな。
元々日本は自然のあらゆるものに神が宿る神道で、神道にはそもそも経典・戒律・道徳観念等は一切ないので、仏教と共に統合されて行った。何にでも神が宿るとする神道では「八百万の神々」と言い、ザックリ畏れ敬い大切にしなさい、ぐらいの道徳観だろう。
四方を海に囲まれている日本では、有史以来1500年以上も単一民族で宗教も仏教と神道で統一されていたため、わざわざ「愛」をクチにする必要が無かったのかも知れない。むしろ仏教的には「アウト」だ。また、15世紀頃までの日本では「愛」とか「愛す」という言葉は余り使われず、使われたとしても、どうやら目上から目下(例えば親が子に)、強者から弱者(例えば男が女に)に使われていたようで、対等な立場で語られた事例は無かったようだ。愛執・愛着・愛欲・愛撫・愛好・愛弄のようなもので、それらの多くは人目をはばかるものであって、長い間人前で「愛」を語る風習や文化が無かったのだろうと思う。

デウスのご大切

日本へのキリスト教伝来はザックリ16世紀だが、キリスト教は「神の愛」を中心思想としていて、そのままでは日本人に理解不能である。フランシスコ・ザビエルを筆頭に、日本にやって来た宣教師は「デウス(神)の愛」「隣人愛」をどう日本人に教えたら良いか。また、当時は戦国時代で「愛」はほとんど「不義」や「咎」に直結し、自分たち宣教師の身も危ない。ではどうしたか?

あいまいな記憶を頼りに広辞苑(第5版)で調べると、僅かにこれだけの記述しかない。

さらに探すと

1600年頃刊行のキリシタン教理書『ドチリナ・キリシタン』は、「万事にこえてデウス(神)をご大切に思ひ奉る事と、我が身を思ふ如くポロシモ(隣人)となる人を大切に思ふ事これなり」と記した。これは「神を愛し、隣人を愛しなさい」というイエスの教え(マタイ22・37〜39)。「愛」を「大切」と訳した。神に向けては「ご大切」、隣人には「大切」と訳し分けてもいる。当時の日本語は「愛」を単独で使わなかったばかりか、恋愛、愛欲など感覚的肉体的意味に強く結びついたので、宣教師たちが誤解を避けて「大切」という言葉を選んだという。

出典:季刊「立教」241号(2017年7月発行)より抜粋

大昔に確か二葉亭四迷の何かの作品で、当時のバテレンが「愛」の代わりに「大切」と置き換えたと読んで「何て素晴らしいんだ!」と感動したのを覚えているのだが、記憶があいまいで出典を探していたら、広辞苑はともかく季刊『立教』チャプレンの言葉に行き当たった。
ちなみに明治期の作家である二葉亭四迷夏目漱石の「愛」の訳し方(?)を参照にまとめておく。

おわりに

「愛」は中々に奥が深く、また軽々しく使うような言葉でもないと思うのだが、あえてそこを「愛国」と言い、「私は日本を大切に思う」と表明するのは、どうだろう。無論、人によって愛の広さや深さは違うのが前提として。
愛するものは守りたい支那・北朝鮮・韓国が日本を侵略しつつあるのに、黙って見ていていいのだろうか。国を守るのに軍事力が重要なのは、北朝鮮が核武装をしつつあるのがその証左だろう。「右派の人間はすぐ国防だ軍事力だと物騒な話をする」と左派の人達は言うかも知れないが、憲法9条があれば無制限に日本は世界から守って貰えるとでも思っているのだろうか?「話せば分かる」「ラブアンドピース」の理想論で、先の大戦後、世界のいたるところで何度地域紛争やテロが発生し、戦争が起きただろうか。
なるほど、左派は社会主義共産主義が大好きで、それは性善説という「理想」でしかない。だが残念なことに「現実」の世の中は性悪説であって、その現実が受け入れられないだけではないのか。理想があれば性悪説の世の中を性善説に変えられると本気で考えているのだとしたら、オメデタイのを通り越して害悪でしかない

参照

 

 

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