先日、私はドナルド・キーン(角地幸男・訳)『日本人の戦争-作家の日記を読む』を読了し、何とも言えない、複雑な気持ちになった。
本書は、戦中戦後の作家の私的な「日記」の中から、当時の日本人の知識階級の思想や実生活を活写しようと試みたもので、その試みは斬新極まりなく、読んでいてドンドン引き込まれて行く。
現代では読まれなくなった当時の作家達が、言論統制と空襲の中を必死で紡いだ日記と、それを戦勝国側の将校であったドナルド・キーン氏が当時の戦局を交えながら考察する内容なので、これほど当時の日本人に肉薄した作品もあるまいと思われる。
しかし、ドナルド・キーン氏が直接的に表現はしないものの、先の大戦は日本にとって「悪い戦争」だったのだろうか。では、開戦時の詔勅(詔書)とは何だったのだろう。
その疑問から、記事を書いてみようと思ったのである。
開戦の詔書(原文)
詔 書
天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
朕茲ニ米國及英國ニ對シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ勵精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ逹成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ
抑々東亞ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ丕顯ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英兩國ト釁端ヲ開クニ至ル洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有餘ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提攜スルニ至レルモ重慶ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ相鬩クヲ悛メス米英兩國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剩ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復セシメムトシ隱忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々經濟上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈從セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ歸シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ
皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス
御 名 御 璽
昭和十六年十二月八日
各国務大臣副書
開戦の詔書(現代文)
詔 書
神々のご加護を保有し、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、忠実で勇敢な汝ら臣民にはっきりと示す。
私はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。私の陸海軍将兵は、全力を奮って交戦に従事し、私のすべての政府関係者は務めに励んで職務に身を捧げ、私の国民はおのおのその本分を尽くし、一億の心をひとつにして国家の総力を挙げ、この戦争の目的を達成するために手違いのないようにせよ。
そもそも東アジアの安定を確保し、世界の平和に寄与する事は大いなる明治天皇と、その偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、私が常に心がけている事である。
そして各国との交流を篤(あつ)くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要としているところである。今や不幸にして、米英両国と争いを開始するに至った。
誠にやむをえない事態となった。このような事態は、私の本意ではない。
中華民国は、以前より我が帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、ついに帝国に武器をとらせる事態に至らしめ、もう四年以上経過している。
幸いに国民政府は南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、ともに提携するようになったが、重慶に残存する政権(蒋介石)は、米英の庇護を当てにし、兄弟である南京政府と、未だに相互のせめぎ合う姿勢を改めない。
米英両国は、残存する蒋介石政権を支援し、東アジアの混乱を助長し、平和の美名にかくれて、東洋を征服する非道な野望をたくましくしている。
(それだけでなく)与(くみ)する国々を誘い、帝国の周辺において軍備を増強して我が国に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与え、ついには意図的に経済断行をして、帝国の生存に重大なる脅威を加えている。
私は政府に事態を平和の裡(うち)に解決させようと、長い間忍耐してきたが、米英は少しも互いに譲り合う精神がなく、むやみに事態の解決を遅らせようとし、その間にもますます経済上・軍事上の脅威を増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。
このような事態が続けば、東アジアの安定に関して我が帝国の積年の努力はことごとく水の泡となり、帝国の存立もまさに危機に瀕している。
ことここに至っては、帝国は今や自存と自衛のため、決然と立ち上がって一切の障害を破砕する以外にない。
皇祖皇宗の神霊をいただき、私は汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、速やかに禍根をとり除いて東アジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄の保全を期すものである。
御 名 御 璽(ぎょめいぎょじ=天皇陛下のお名前とその印章のこと)
昭和十六年十二月八日
各国務大臣副書
解説のようなものを書いてみる
いわゆる「開戦の詔書」の全文とその現代文を書き出してみたが、私のような「団塊の世代」のジュニア世代では、「終戦の詔書」は終戦の玉音放送があったのを知っている程度で、「開戦の詔書」は丸っきり学校教育で知ることはなかった。
ところが、昭和12年の支那事変に始まる日中戦争、特に昭和16年に開戦した大東亜戦争の戦時中は12月8日と各月の8日が「大詔奉戴日」で、当時の学校ではこの詔書を繰り返し児童・生徒に教えていたそうだ。
当時の小学生は「教育勅語を暗記」するのが義務で、教師の前で暗唱出来なければダメだったようだし、詔書も繰り返し教えたのだろう。
当時の詔書を現代の日本語に訳すというのも変なものだが、80年近く経つと日本語もこのように変化するのか、といった面と、現代の日本語にしないと読めないし意味が分からないか、の両面から軽く絶望した。
詔書の原文は徳富蘇峰が書いたと言われる名文で、この美しい日本語の名文を味わえない現代の日本人は、私からしたら不幸でしかない。
ともあれ、私は歴史や戦史に詳しくないので、そういった解説は無理だ。なので「解説のようなもの」にしかならないが、ご容赦願いたい。
詔書で昭和天皇が「豈(あに)朕(ちん=天皇陛下)が志ならむや」と述べているように、米英との戦争は本意でないことを強調している。
また、当時の支那(中国)についても「曩(さき)に帝國の眞意を解せず、濫(みだり)に事を構へて東亞の平和を攪亂(かくらん)し」とあるように、日本は支那を侵略する意図が無かったことが分かるし、東アジアの平和を乱しているのは当の支那人であるとしている。
それでも幸いに国民政府は南京政府となり、「帝國は之(これ)と善隣(ぜんりん)の誼(よしみ)を結び相提攜(あいていけい)する」ことが出来たのではあるが、蒋介石政権は米英の庇護を当てにして「兄弟尚未だ牆(かき)に相鬩(あいせめ)ぐを悛(あらた)めず」とある。
この表現は支那最古の詩集『詩経』に「兄弟牆(けいていかき)に鬩(せめ)ぐ」があるが、高い教養がないとこのような文章にはならない。
内容もさることながら、この美しい日本語の名文をなぜ学校教育でやらないのか?本当に疑問でしかない。
現代文を読んでいただくと分かると思うが、米英との戦争は避けたかったが、「日本の自存と自衛」にやむなく立ち上がったのが読み取れる。
これは反日勢力や反日左派にとって「都合の悪い事実」であって、何とか先の大戦を日本の「侵略戦争」に仕立てたいがために、戦後教育で一切この詔書に触れさせなかったのではあるまいか。
終戦後、GHQが上陸して日本を「占領」し、東京裁判その他で「戦犯」と「戦争理由」を一生懸命探した。バカな話だが、日本が進んで戦争する理由なんぞあるワケがなかった。それはこの「開戦の詔書」が示している通りだ。
問題なのはGHQによって企業トップ・政治家・高級官僚がことごとくパージ(追放)され、代わりに据えられたのは二流・三流の人間だった。
一流の人間をほぼ全員パージしてしまったのだから、これは当然と言える。で、二流以下の人たちがやることと言えば「保身」と「利権」にしがみ付くぐらいのことである。
つい最近まで「鬼畜米英!」と叫んでいた同じ人間が、敗戦と同時に「親米」になり「民主主義万歳!」と叫ぶ。それが戦後日本の最初のつまづきであり、今もなおその禍根が残っている。
また、終戦前後ぐらいに生まれた「団塊の世代」は、敗戦後のそういった大人たちを見て育った、一番手がつけられない世代だ。戦争を否定し、反体制こそがカッコイイという価値観は、今では通用しないカビ臭いモノではあるが、自分達を正当化するにはそれしかなかったのだろう。
未だにNHKと朝日新聞を信奉している「団塊の世代」は多いが、そういった理由だと推察する。
当然ながら、その子供世代である我々も、戦後教育の中で史実を教えて貰うどころか、自虐史観をミッチリ叩き込まれた。なぜなら、学校の教師が「団塊の世代」だったのだから。
出典:永島慎二『フーテン(上)』(講談社漫画文庫・1976年8月24日第1刷発行)
私が「偉い」と思うのは、敗戦を受け入れ、言い訳ひとつせずに一生懸命働いた日本人だ。
戦時中のことを当時の人が言いたがらなかったのは、ひとつには「戦争に負けた」ので、何か言おうものならすべて「言い訳がましい」ことになるから、ではなかったか。
単純に辛く、嫌な時代でもあったから、それを思い出したくなかったのもあるかも知れない。誠に日本人らしいメンタリティである(無論、戦後になって「言い訳」をした人はいる。特に日本文学報国会に参加した作家達が、それをやった。これは事実だ)。
食糧難で住宅難の敗戦から、日本はここまでの経済大国になった。自分の子供に戦時中の話をするヒマもないほど、仕事や育児に大変だったのは想像に難くない。しかし・・・。
なお、この「開戦の詔書」にどの程度昭和天皇のお気持ちやお考えが込められたのかは、正直分からない。
ただ、当時の日本の置かれた状況を考えると、逆に宣戦布告しない理由の方が見当たらない。それに戦後の昭和天皇の言動を知ると、かなり昭和天皇の思いが詔書に込められたのでは?と思う。
次の一文は、昭和20年9月27日に昭和天皇が米国大使館の大使公邸でマッカーサーを初めて訪問し、会談したときの天皇陛下の発言だ。
「私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題ではない。構わずに総ての事を進めていただきたい。私は全責任を負います」
読売新聞の記事は、安保条約改定に向けて訪米した重光葵外務大臣(当時)がマッカーサーに面会し、初めて聞いた話として帰国後に寄稿したものだ。
動画を見ていただければ、当時マッカーサー元帥の通訳官をしていたバワーズ少佐がちゃんと証言していて、嘘ではないことが分かるだろう。
この事実は戦後10年を経て、やっと国民の知るところとなったのである。
そして昭和天皇は全国巡幸へ
私が敗戦の翌年に天皇陛下が日本全国を巡幸(じゅんこう)されたのを知ったのは、坂口安吾の「天皇陛下にささぐる言葉」(初出:『風報』第二巻第一号・昭和23年1月5日)だった。短編のエッセイで、作品の中では「巡幸」を「旅行」としてあったので、最初は良く意味が分からなかった。
私の10代は、正に「太宰治を母と慕い、坂口安吾を父と畏怖」するような青春で、寸暇を惜しんで読書をしていたが、流石に人間の「本質」を突き過ぎる安吾の「天皇陛下にささぐる言葉」は、私にとっては違和感があり過ぎた。
私にとって天皇陛下は政治的にも実生活においても無縁だったのはある。そもそも政治に1グラムも興味がない少年(すぐに青年になったが)に、昭和天皇に関して実生活で影響があったので言えば、「崩御」された時の印象と記憶しかない。
それはともかく、戦後すぐに「天皇陛下万歳!」と『パンドラの匣』で書き、「苦悩の年間」を書いた太宰治と、『堕落論』を書き、その他の作品で強烈に共産党と天皇批判をした坂口安吾とでは開きがあまりにあり過ぎて、若い私は、正直に言えば混乱した。
戦後に脚光を浴びた太宰と安吾であるが、共通点がある。それは戦時中に日本文学報国会に属さない作家であったということだ。
太宰の場合は戦前・戦中と、ある程度文壇で知られた作家ではあったし、事実『惜別』は日本文学報国会に関係する唯一の作品ではあるが、戦意高揚の作品では決してない。
安吾について言えば、戦前・戦中とほぼ無名の作家だった。よって、日本文学報国会に名を連ねるほどの作家ではなかったと思われる。
しかし、戦前も戦中も執筆活動はしており、当時は売れない作家だったが、「本物」の仕事をしていた。
例えば「日本文化私観」が戦時中の昭和17年に発表された作品であることを考えれば、当時の安吾が言論弾圧や特高警察すら意に介さない(ある意味凄い)作家だったのが分かる。
付け加えるならば、日本文学報国会でも極端な愛国者で「極右」と言って良かったのが、前述した「開戦の詔書」の原文を書いたとされる、徳富蘇峰だった(そもそも蘇峰が日本文学報国会を設立したし、会長でもあったのだが)。
話が逸れたが、昭和天皇はマッカーサーに命乞いどころか「全責任は私にあるから、どんな処分でも受ける」と言った翌年、日本各地を隈なく歩いて国民を励ますことが責務だと考え、それを実行に移した。
安吾の「天皇陛下にささぐる言葉」には、天皇陛下を風刺した雑誌が「天皇は箒だ」と書いたとある。天皇陛下が巡幸予定の土地では、「天皇陛下がお見えになる」ということで、その土地の行政や市民が一丸となって街を掃き清めたからに他ならない。
それは多分に米軍の無差別爆撃により「焼け野原」となった街の再建と、闇市とヤクザ者による暴力が支配するカオスを解消する契機となったハズだ。
だが、安吾は(恐らくそんなことは先刻承知だろうが)天皇の権威について、それが敗戦によって地に堕ちたことについて、また、天皇とは?を当時の新興宗教の教祖である「璽光(じこう)様」を引き合いに、敗戦になっても多くの国民が「狂信的」であると批判する。
安吾を擁護するワケではないが、安吾ほど人間を愛し、憎み、突き放した作家はいないだろうと思う。
その激しさが時として読者を遠ざけてしまうことにもなるのだが、私は天皇陛下を愛するが故の、安吾一流の批判だと思えるようになった(愚鈍な私は、理解するまでにかなりの時間がかかったことを告白する)。
ここで、この長い記事を読んでいる、本稿の読者に問いたいのだが、同じ敗戦国であったドイツやイタリアの指導者はどうなったであろうか?
ヒトラーは敗戦を待たずに自決したと伝えられているし、ムッソリーニは略式処刑で銃殺後に国民から石を投げられ、死体が逆さ吊りにされたと伝えられている。
では、天皇陛下はどうだっただろうか。
「開戦の詔書」を出し、「終戦の詔書」を出した昭和天皇は、ヒトラーやムッソリーニのような運命を辿るどころか、日本全国を巡幸し、当時の「食うや食わず」の国民を慰め励まし、その国民は最敬礼で陛下を迎えたではないか。
こんな「奇跡的」なことは、古今東西、世界中を探したって、日本でしかあり得なかった。
米軍MPのたった2人だけの警護で、天皇陛下が憎い国民は、いつでも陛下を襲って殺すことも出来ただろう。しかし、安吾の批判なんて関係なく、国民は陛下がくたびれた背広姿で帽子を脱いで挨拶する姿に、心を打たれたのである。
しかし、残念ながら、戦後昭和天皇が沖縄の地を踏むことは無かった。唯一沖縄では「本土決戦」が行われたし、戦争による民間人の犠牲者も多く出した。
敗戦国日本の意思とは関係なく、戦後アメリカが地政学的に沖縄に基地を作り、アメリカに統治された沖縄には、天皇陛下といえども行くことが出来なかったのである。
当時の沖縄は日本ではなく、アメリカだった。日本人であっても、パスポートがなければ沖縄入りすることすら出来なかった。
昭和天皇は、崩御なさる晩年まで、いつも沖縄のことを思っておられたようだ。強行軍で日本各地を巡幸された昭和天皇は、沖縄に行けなかったのが心残りであったのだろう。
昭和47年に発行された「沖縄県祖国復帰」の記念メダルを、病床にあった時でも手元に置いていた、と伝えられている。
おわりに
冒頭でドナルド・キーン『日本人の戦争-作家の日記を読む』を紹介したが、その「第一章 開戦の日」の冒頭は、次の書き出しで始まる。
英米との戦争が勃発したことを知って、これまで日記などつけたことのない者まで含めて、数多くの日本人が日記を書き始めた。この戦争が日本の歴史の一大事件となるに違いないと信じ、新聞に報道される新しい事態を刻一刻と日記に記録することで、栄光の時代を記憶にとどめようとしたのだった。
出展:ドナルド・キーン(角地幸男・訳)『日本人の戦争-作家の日記を読む』(文春文庫・2012年9月15日第3刷)より21ページ冒頭
終戦から70年以上が経過し、当時の作家の日記は戦後から数年~20数年後に出版されたが(生前の出版を許さなかった作家もいる)、よほどの文学マニアか研究者でもない限り、出版された作家の日記を読むことはないだろう。
それに、作家ではない個人が書いたであろう無数の日記も、敗戦により日記を書いた本人や後の家族にとって「無意味」なモノとして、大量に破棄されたのだろうと思われる。
ただ、ひょっとしたら、アナタの家にも祖父母が書いた日記が残されているかも知れない。祖父母や高齢の親戚がご存命中であれば、直接当時の話を聞くことも、今ならまだ可能だろう。
ぜひ、アナタの次の世代に、当時の戦争と日本の事実を語り継いでいただきたい。
参照
- 昭和天皇・マッカーサー会談の「事実」(日本政策研究センター・2006年06月29日)
- 全国巡幸 国民を慰め、励まされるための旅(産経新聞・iRONNA・1995年08月08日から5回連載の再録)
- 昭和天皇が肌身離さなかった復帰記念メダル 皇室と沖縄(朝日新聞・2018年03月26日)
※この記事は沖縄を日本から分断したい悪意が読み取れるが、敢えて記載する
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