令和02年11月25日は、三島由紀夫烈士と森田必勝烈士の没後50年という節目の年で、その追悼の集いである「憂国忌」が永田町の星陵会館で執り行われ、私も参加した。
今年は日本文化チャンネル桜でライブ中継が行われており、私個人が思うことを記事にしたところで価値はないだろうと思う。
そこで本稿では、会場で配布された憂国忌の冊子から森田治氏(森田必勝烈士の兄君)の「憂国忌五十年に寄せて」と、「憂国忌五十周年 祭文」を転載・収録し、さらに興味がある読者へ書籍を紹介するに止めようと思う。
憂国忌五十年に寄せて
「憂国忌五十年に寄せて」を代読する佐波優子氏
あの日から瞬く間に半世紀の歳月が流れ、わが国の世相も社会もすっかり変貌したかに見えるこの頃ですが、事件は風化しているのではなく、深化しているのではないでしょうか。
一日たりとも忘れ去ることが出来ない五十年でした。三島先生と亡弟の諌死に思いを馳せ冥福を祈る日々でした。
憂国忌を発起された多くの先生方や関係者が物故されましたが、依然として集まりは絶えず、しかも年々歳々、若い参加者が増えていると聞き及んで、一種安堵感があります。
過去に憂国忌に出席し、嗚呼こうして舎弟も祀られているのかと、ただ感謝申し上げておりました。
この集いを裏方で支えた皆さん、賛助を寄せられて物心両面で支えて下さった皆さんに、こころから感謝申し上げます。
舎弟・必勝が三島由紀夫先生とともに諌死を遂げるにいたった理由を、ずっと考えて来ました。
残った資料や、文献を渉猟しました。たくさんの人々が墓参に来られ、話し合いもしてきました。
いまだに確定的な解は出ませんが、半世紀を閲しても、こうして多くの人が命日に馳せ参じて、あの事件の意味を問う集いを開催し続けている理由も、そこにあるのかと思われます。
五十年忌という大切な節目に、東京に駆けつけたい思いは募りますものの、わたしも九十歳を越えて無理ができなくなりました。
五十年祭の多面的な意義を噛みしめながら、遠く四日市から厳粛なるご盛会を祈っております。
令和二年十一月二十五日
森田 治
憂国忌第五十周年 祭文
祭文を奏上する竹本忠雄氏
謹んで、三島由紀夫命(筆者注:ミシマユキオノミコト)、森田必勝命(同:モリタマサカツノミコト)の御霊の御前に奏上し奉ります。
日本の前途を憂え、建軍を阻む戦後憲法の改正を叫んで、その根底たるべき武士の魂を振起せしめんと、楯の会の両烈士が市ヶ谷台上で壮絶な最期を遂げられてから、本日ここに五十年の歳月が流れさりました。
事件後、森田必勝氏を生んだ日本学生同盟の有志により三島由紀夫研究会が結成され、その熱誠と、義挙の志を慕う全国同胞の共感に支えられ、乃木神社による厳粛なる鎮魂帰幽の神事のもと、憂国忌は今日まで絶えることなく挙行されてまいりました。
その間、しかしながら、日本は、憲法の一行をも変えることあたわず、このままでは「或る経済大国として極東の一角に残る」ほかなしと危惧されたことが早くも現実化し、周辺諸国による直接間接の侵略、反日活動に対して、ただ歯がみして甘受するのみの現状に至ったのであります。
かたわら、世界的天才文学者三島由紀夫は、いみじくも、死を決することによってのみ見えてくる未来があると、畢生の大作『豊饒の海』の若きヒーロー、飯沼勲に託して、政治をはるかに越えた次元から明察を下されました。後代の私共、ひいては異国の讃仰者をも斉しく感奮せしめてやまないものは、「自刃の思想」に至る、この至純の魂であります。
かかる魂より発して、三島先生、あなたは、『英霊の声』で神風特別攻撃隊員の亡魂を鎮め、翌年さらに二・二六事件の磯部一等主計の遺稿を精査して、玲瓏たる名作『憂国』にその至誠を結晶せしめて、もって国賊として葬られた忠烈諸士の名誉を復興されました。
けだし、吉田松陰に極まる、国の英雄たちの累々たる屍、そこから羽ばたき出た白鳥の群れにささえられて大和島根はあり、見えずとも在るその英霊を祀ればこそ国は在り、祀らねば亡びるほかなきこと、必定だからであります。
かくのごとく、三島先生は、遡っては敗戦と東京裁判に至る日本の凶運の闇黒部分を照射し、未来を見ては、日本と世界の諸事件の本質を神のごとくに見透しておられました。
『癩王のテラス』は、カンボジアのクメール王国崩壊の予見でした。義挙の年、昭和四十五年から見ればソ連崩壊も天安門事件もほぼ二十年も先であったにもかかわらず、ハンガリー、チェコの悲劇から推して、「革命衝動」が無差別の破壊と殺戮に至る内面的必然性を指摘し、そもそもフランス革命の時代において人間性への最も深い洞察を下したのは「ヴォルテールではなくサド侯爵である」と喝破されました。
しかして、『文化防衛論』において、キング牧師の暗殺とヴェトナム戦争後遺症からして「民族と国家の分裂」は今後激化の一途をたどるであろう、ここから、敗戦以後、異民族の問題のほとんど皆無だった我が国においても、この分裂は朝鮮人問題や沖縄問題として深刻化するであろうと警告されました。
さらには、これまた、横田めぐみさんの拉致より二十年も前に、「人質にされた日本人を平和的にしか救出しえない国家権力と、世論という手かせ足かせ」という限界を鋭く指摘し、救出を阻む日本内部の牢固たる壁を見透して、つとに根底から疑問を呈されたのであります。
ここから、「剣の原理」を説いて、世にも人にもさきがけて大義に殉じられた行為に対して、時の政界の領袖たちは狂人扱いをしましたが、いま、日々、尖閣諸島で生じつつある目を覆うばかりの中国艦船の横暴を見るにつけても、彼らは言うべき如何なる言葉を持つでしょうか。
まことに、先生の明察は余りに深く、その託宣は時に私共凡俗の理解をこえて神秘的と思われることさえありました。マルクス主義の「弁証法的進歩の概念」に抗しうるのは「日本文化の生命の連続性の本質」のみとして、「みやび」の極みたる天皇こそこの本質を照らしだす鏡であると卓見を示されましたが、国と民族の分裂が極まれば「みやび」が一転して「荒ぶる神」となることありと指摘されたごとき、それであります。果たせるかな、市ヶ谷台上の蹶起より四年目、昭和四十九年に、「靖国神社国家護持法」が国会で最終的に廃案とされるや、その時を画して日本の救いがたき精神的堕落は決定的となり、同時に、懼れ多くも昭和天皇御自身による「慷み」の御製の群詠が開始されたのでありました。エレミアの悲歌ならぬ昭和天皇の悲歌は、「憂国サイクル」ともお呼びすべく、以後十五年にもわたって連綿と続き、
《やすらけき世を祈りしもいまだならずくやしくもあるかきざしみゆれど》
との血涙共に下る事実上の辞世をもって終わるまで熄むことはなかったのであります。
和御魂の顕れであらせられる天皇の、かくもあからさまなる荒御魂への変容に、私共国民は心底から恐怖し戦きましたが、思えばそれは、三島・森田両烈士の辞世にはとばしる憂憤が掻き立てた、見えざる波動との奇蹟的共振であるかに拝せられるのは、僻目でありましょうか。
しかも、この御宸憂を受け継いだかのごとく、それから八年後、同じく「終戦記念日」を期し、かつそのように題して、皇后陛下美智子さまのお詠みになった
《海陸のいづへを知らず姿なきあまたの御霊国護るらん》
の、あの絶唱が、突如、凛乎として立ち昇ったのであります。
かくして、戦慄的一作、『英霊の声』に描きだされた、月明の海上をさまよいつつ呪詛の声を上げる特攻戦士たちの怨霊は、世界史にも稀なる君民呼応によってさらに大いなる鎮もりを得たと拝しうるでありましょう。
「帝王の御製の山頂から一卜つづきの裾野につらなることにより(・・・)国の文化的連続性(は達成されるであろう)」との先生の予言は、ここに了々として実現を見たのであります。
獄中で聖慮の下ることをひたすら夢見た磯部浅一に仮託して、『憂国』の著者三島由紀夫はこう問いました。
待つとは何か--と。
市ヶ谷台上において楯の会隊長三島由紀夫は自衛隊員たちに総蹶起を促し、檄文でこう訴えました。
「あと三十分、最後の三十分待とう」と。
「今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ」との絶唱がこれに続きます。
待つとは何か。
最終的に応答は自衛隊からは、政体からは来ないであろう、ゆえにこそ、自刃をもって終わる「道義的革命」の意義はあるのだと明晰に見透しつつ、しかもなおこの最後の叫びに血涙を振り絞った烈士の真情を思って、私共は慟哭せざるをえません。
しかし、武士道の日本は、血をもって終わらず、歌をもって終わる国であります。
奇蹟の共振の波は続き、天皇皇后両陛下は硫黄島におもむき、栗林忠道中将の辞世「・・・矢弾尽き果て散るぞ悲しき」に返歌をささげられました。
硫黄島玉砕からこの高貴なる応答まで、五十年--その意義が、三島森田両烈士の自刃から本日只今の憂国忌までの五十年のそれと重なる時が到来しました。
歴史的現実の時間においては見えずとも、霊性的次元においてこのことは皓々として明らかであり、しかも、合理と進歩の名のもとに歴史につまづいた人類史の二百数十年ののちに、いま、科学的真理とも不可分の、三島文学が「白昼の神秘」と呼ぶ未知世界が啓かれようとしております。
この新たなる光の中で、共感の木霊は事件以後に生まれた若者たちの間からも続々と返りつつあり、もはやそれは世界的現象と化しつつあるのであります。
コロナ禍がなければ、今日この日を待ち焦がれたそれらの人々が駆けつけて、この会堂は埋めつくされたことでしょう。
これらすべての賛同者とともに、二柱の命の至誠を偲んで、ここに私たちは三島精神の継承を新たにお誓い申しあげるものであります。
「あとに続くを信ず」--
三島さん、
いまや、この信は、日本のみならず、「美しい星」救済の夢となったのです。
令和二年十一月二十五日 憂国忌五十周年祭主 竹本忠雄
書籍紹介
私はいわゆる「三島事件」後に生まれた人間なので、偉そうなことは一言半句言える立場にはないが、私を含めた40~50代でも、「憂国忌とは何か」を詳しく知る人の方が少ないだろう。
そこで、特に上述の祭文に涙する心ある全ての老若男女に、次の書籍を紹介したい。
本書は、憂国忌の前身となった「三島由紀夫氏追悼の夕べ」が開催されることになった経緯から、事件発生からの半世紀について、その運動の当事者によって語られている。
また、三島由紀夫と楯の会隊員4名が事件当日、益田総監と面談するところから益田総監が辞任するまでの知られざる詳細、そして「三島由紀夫と最後に会った(陸上自衛隊)青年将校」について、はたまた居合道五段による「切腹と介錯」についてまで、一般人がおよそ知り得ない事実が語られている。
そして半世紀を経て、憂国忌の今後について展望が述べられているので、ぜひお読みいただきたい一冊だ。
森田必勝の介錯がなぜ失敗したのか、そして森田必勝はなぜ大きく腹を切ることが出来なかったのか?を知る、重要な事実が記載されている。
本書ほど理論的に事実が丁寧に整理され、無駄がない上に関係者による核心的な「三島事件」に肉薄した本を、私は読んだことがない。
防大卒で(のちに防大教授も務めて定年退官されているが)、しかも三島と親交のあった著者(三島と最後に会った青年将校)でしか書けない、渾身の書だ。
三島のクーデター論や、日本国憲法改憲に関しての著者の卓越した三島論とその考察は、控えめに表現しても必読だと思う。
さらに憂国忌や三島由紀夫研究会、そして当時の民族派学生運動について興味があって知りたい方は、本書のご一読をオススメしておく。
上述の『「憂国忌」の五十年』とは趣がやや違い、民族派学生組織である日本学生同盟(日学同)に参加し、事件に衝撃を受け、その後も三島由紀夫研究会や、民族派青年活動組織である重遠社で活動をした人達の、多数の証言が載っている。
今から10年前の本なので出版社に在庫があるかは不明だが、「三島事件前史」とその後の運動を知るには(巻末の「資料編」も含め)、貴重な一冊だ。
憂国忌を含め、三島由紀夫研究会や重遠社は日本学生同盟(日学同)系の民族派運動であるが、左派全学連華やかなりし時代には、別の民族派学生運動組織があった。
元々は日学同と一緒に全国展開をしようとしていた、新興宗教系の生長の家学生会全国総連合(生学連)がそれであり、生学連と一体となった全国学生自治体連絡協議会(全国学協)であり、それが現在の日本会議だ。
これら民族派学生運動組織が掲げたのは(「学園正常化」や「全学連粉砕」以外だと)、
- ヤルタ・ポツダム体制打破
- 自主憲法制定
- 日米安保克服(自主防衛体制確立)
- 失地回復(沖縄・北方領土奪還)
- 核防条約粉砕
といったスローガンで、従来の親米反共路線の既成右翼とは一線を画することから、「新右翼」と呼ばれた。
本書は小説風な作品になっているが、左翼(学生とその上部組織)に乗っ取られた当時の大学を正常化しようとした民族派学生運動の前史から、2005(平成17)年の三浦重周・重遠社代表の自裁までを、事実を積み重ねた重厚なドキュメンタリーとして教えてくれる。
「新右翼とは何か」「日本会議の源流は何か」を知りたい人には必読だろう。
おわりに
三島由紀夫最後の言葉である「檄文」を本サイトで掲載した以外で、憂国忌や三島由紀夫について書いたのは、次のnoteの記事ぐらいだ。
要するに、私ごときが憂国忌や三島・森田両烈士について語る言葉は、まだまだ持ち合わせてはいないのだ。
冒頭でも述べたように、今回の憂国忌はYouTubeでライブ中継されたし、その動画はYouTubeにいつまでも存在するだろうから、会場の様子や、どんな内容であったのかは誰でも視聴して知ることが出来るだろう。
ただし、動画を視聴するだけでは重要な部分の理解には役立たない。そこで、どうしても重要だと思う森田治氏の「憂国忌五十年に寄せて」と、「憂国忌第五十周年 祭文」を文字起こしして記事にした。理解されるまで、繰り返し読んでいただけたら、と思う。
蛇足ながら憂国忌や新右翼運動について、本稿の読者が理解するのに最適だと思う書籍を紹介したので、購入するか図書館等を利用して読み、理解を深めていただければ幸いだ。
最後に、マスコミによる憂国忌関連の報道を「参照」にまとめておいた。
関連記事
参照
- 加藤長官「衝撃的な出来事でしっかり覚えている」 三島由紀夫決起から50年(産経新聞・2020/11/25 18:28)
- 追悼の「憂国忌」開催 三島由紀夫没後50年―東京(時事通信社・2020/11/25 18:53)
- 三島由紀夫没後50年で追悼 「憂国忌」に200人(東京新聞・2020/11/25 19:13)
- 三島由紀夫没後50年で追悼 「憂国忌」に200人(日本経済新聞・2020/11/25 20:55)
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