先日の11月25日、星陵会館で執り行われた第51回憂国忌に参加した。
51年前の当日は、三島由紀夫・森田必勝ら楯の会有志4名が市ヶ谷の防衛庁(当時)総監室を占拠、バルコニーから自衛隊に檄を飛ばし、憲法改正すら出来ない戦後の日本と日本人に「生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる」と諫死した日であり、憂国忌は三島・森田両烈士を追悼する集いである。
ゆえに、憂国忌のテーマや内容は毎年違うものの、その根底にあるのは三島由紀夫と憲法論や天皇論、そして日本民族の真の独立・自立であるから、登壇される論者・識者から語られる内容は、どれも異口同音であるのは否めない。
それが、なんと今年で51年も続いているのだ。
いわゆる「三島事件」が発生した1970(昭和45)年当時、三島・森田両烈士の諫死は思想の有無や、そのイデオロギーの左右を超えた大事件だったハズで、その衝撃たるや大変なモノだったろう。
また、当時の沖縄は米国の施政権下であって、日本人であってもパスポートが無ければ自由に出入りすることすら出来ず、沖縄では米ドルが流通している有様だった。
その後、1972(昭和47)年に沖縄が平和的かつ奇跡的に祖国復帰を果たすが、日本はそれまでの超高度経済成長を背景にした好景気に浮かれ続け、すでに日本人の多くは国家よりも会社に忠誠を誓い、会社と家庭の繁栄の方を大事にしていた。
結果として、歴史書や文学・哲学書よりも資格取得の教科書を手に取り、ありとあらゆるハウツー本が消費され、「より豊かになる」ためにバブル景気へと突き進んだように思われる。
つまりは、三島由紀夫が最晩年に予言した通り、国防は日米安保に委ねられ、自衛隊は曲学阿世の政権によって米国の傭兵に成り下がったまま、北方領土の失地は回復も解決もされず、日本国憲法は1字たりとも修正することなく、今日に至っている。
挙げればキリがないが、国防においては竹島や尖閣諸島の問題も同様だし、重大な国家主権と日本国民の人権侵害に関わる北朝鮮による拉致事件でさえ、何ら解決の糸口すらないままだ。
逆説的だが、だからこそ半世紀も毎年同じように問題を提起し、論じ、訴えなければならないのだろう。私のようなセッカチで合理的に短気な人間からすると、憤怒のあまり血圧が上昇したまま、脳出血で憤死してしまいそうだ。
そうでなくても、日本が抱える問題の深刻さと困難さを知れば知るほど、絶望と虚無感から距離を置いたり、または離脱する人が絶えないのは、むしろ当然だと言える。
それはともかく、コロナ茶番以外で昨年からマスコミやSNSを賑わせたのは眞子内親王殿下と小室某の御婚儀で、従来からの女性・女系天皇論と女性宮家創設問題が蒸し返された格好だ。
そんな世論もあってか、今年の憂国忌では登壇者による改憲に関連した女系天皇の容認の話や、皇位継承と皇室に関する話が私にとっては特に印象的で、本稿ではそれを取り上げてみたい。
昨年は三島・森田両烈士の諫死から50年という節目の年であったから、11月4日に「『三島由紀夫と楯の会』元楯の会有志が語る会」が実施されたようだ。
元楯の会一期生有志による貴重な証言が多数あったようだが、本稿では本旨ではないから省略するものの、憂国忌の記念講演で「実は三島由紀夫が女系天皇を容認していた」という話題で、葛城奈海氏が軽く取り上げて紹介していた。
恐らく一般に知られていないであろう「三島由紀夫が女系天皇を容認していた」という話を、なぜ葛城奈海氏が記念講演の終わり近くで取り上げたのか。
これに関しては引き続き行われた討論「改憲をめぐって 三島の憲法論を読み解く」においても、聞き手の菅谷誠一郎氏が藤野博氏に「三島が女系天皇を容認していたという説が未だに一部であるんですが・・・これは事実なんですかね。どうご覧になりますか」と問うている。
藤野博氏は、三島が天皇に言及した評論・エッセイ等の作品はほぼ全て読んでいて、氏が読んだ中で「男系か女系かといった皇位継承問題に触れた文章は見当たらない」としながらも、「三島ならこう考えただろうという推測」として、氏独自の推測を開陳された。
葛城奈海氏の場合はその真意は不明ながら、菅谷誠一郎氏は憂国忌を主催している三島由紀夫研究会の事務局長だから、この雑誌『伝統と革新 37号』を読んでの発言だったに違いない。
葛城奈海氏は、元楯の会一期生で初代学生長だった故・持丸博氏から家族が聞いた話を根拠に否定しているが、藤野博氏による独自の推測は、膨大な三島作品と日本の歴史的背景、そしてその長きにわたる日本の慣習から推論しているので興味深い。結論として藤野博氏は「断定は出来ないし、分からない」と述べたが、誠実さのある正直さだと思う。
ちなみに『伝統と革新 37号』には、三島由紀夫研究会の代表幹事である玉川博己氏の「三島由紀夫と天皇論」が掲載されている。その中で「三島由紀夫が女系天皇を容認していた」とする部分を抜粋してみよう。
2. 二・二六事件と平泉学派
( 4 ) 三島事件と平泉学派
十年前三島事件四十年を機に多くの出版がなされた(我々が上梓した『「憂国忌」の四十年』もそのひとつである)。その中で私が大変興味深く読んだのが鈴木邦男氏の『遺魂 三島由紀夫と野村秋介の軌跡』である。この本で鈴木氏は「最後のサムライ三浦重周の自決」という感動的な一文を書かれているが、その他鈴木氏の着眼が鋭いと感じたのが、憲法論に関して三島由紀夫が女系天皇を容認していたことの紹介と「論争ジャーナル」グループと三島由紀夫の確執の原因が平泉学派の存在にあったことを述べた文である。出典:玉川博己「三島由紀夫と天皇論」より抜粋
『伝統と革新 37号』(たちばな出版・令和03(2021)年01月15日)
※外部リンク等、文字修飾は本稿筆者が追加
ネットその他で保守を自称する人であれば、鈴木邦男氏の名前ぐらいはご存知だろう。学生時代に初期の民族派学生運動を展開し、学生運動に失望して大学院卒業後に実家に帰って勤め人になったものの、同じ民族派学生運動家だった森田必勝の諫死に衝撃を受け、再度上京して一水会を立ち上げた人だ。
私は読書する時間が中々取れないから、居間の本棚は未読の積み本だらけになっており、それも日増しに増えるといった塩梅で、未だに『遺魂 三島由紀夫と野村秋介の軌跡』は読むどころか買ってさえいない。
ゆえに「三島由紀夫が女系天皇を容認していた」とする部分に関して検証はしていないし、着手するのもいつになるのか分からない。
失礼ながら、私にとって三島由紀夫は太宰治や坂口安吾ほどには文学的に評価をしておらず、私個人は保守を自称したことさえないし、今はそういった活動から距離を置いている。要するに、優先順位が低いのだ。
それに、太宰治にせよ坂口安吾にせよ、ここ1~2年に限定しても文学的な新発見があってニュースになった程だから、没後51年の三島由紀夫なら尚更で、これからいくらでも文学的な新発見があって当然だと考える。
ただ、三島由紀夫の場合、三島文学愛好者は政治や社会に無関心で、三島の右派的行動に共感する保守人は文学には無関心な人が圧倒的のようだ。むしろSNSで右派ないし保守的な発言をしている人は、三島由紀夫にすら関心がない人の方が多い印象さえ受ける。
例えばTwitterで先日の憂国忌のツイートを連投したが、ほぼリアクションがないのは毎度のことだし、憂国忌のツイートがあっても「今日は何の日」的なモノばかりだ。それに憂国忌の参加者は中高年の高齢者が多いから、SNSで発言をする人は少ないのだろう。
ともあれ、改憲するにしても自民党案の「自衛隊明記」加憲は政権与党が世論に阿る妥協の産物で検討する価値すらなく、皇統維持と皇室の問題も、女性・女系天皇や女性宮家創設を持ち出すまでもなく、取るべき結論は言論誌等ですでにいくつも有用な解決策が提示されている。
政治家を含め、ライトサイドの保守陣営が昔から人材不足なのは理解しているが、それにしても毎回どこの講演会や勉強会でも発言している、同じような主張や理論を憂国忌にアレンジした程度の内容では、聴くだけ時間が惜しくなる。
どんな運動や活動でも、続ければ続けるほど当初の熱量が減少し、形骸化して行くのは仕方がないにせよ、案外保守活動に対する一般人の冷め切った反応というのは、嗅覚だけは鋭い民衆に、中身を見透かされているものなのかも知れない。
そんな一日だった。(´ー`)y-~~oO
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