太宰治が身近に感じられたあの頃~『太宰婚』の感想に寄せて

たまたまお昼に荻窪のとあるライブハウスへ遊びに行くことになり、久しぶりにバイクを出すか、と思ったがエンジンがかからない。結局ゲタ代わりのスクーターで向かった。その後、お茶でも飲みにと思い、三鷹の古本カフェ・フォスフォレッセンス(以降、「フォスフォレッセンス」と略)さんへ向かったのだ。
入店するなり「今日は安吾忌ですね」と声を掛けられ、「あ!?忘れてた!」てなことになったのだが、店主の駄場さんが自費出版される本の予約を受け付けていたので、持っていた名刺を渡して1冊お願いしたのだった。

いつでも会える太宰ファン

私が三鷹のフォスフォレッセンスさんへ行くようになったのは、恐らくここ3~4年ぐらいのことだろうと思う。記憶が曖昧だが、確か桜桃忌の日に初めて行ったのではなかったか。
当時のTwitterアカウントで数少ない相互フォロワーのアカウントのひとつが、フォスフォレッセンスさんだった。私はコーヒーと言えば年中アイスコーヒーばかり飲む男で、初めて行った時もアイスコーヒーを頼み、何かで「Twitterフォロワー割引」という文言を見て、お会計の時に「実はTwitterでフォローしてまして」とゴニョゴニョ言い、1割引だったかな?していただいた記憶がある(注:現在は「Twitterフォロワー割引」をしていないと思う)。
私は基本的に人見知りで、それこそ一杯やってなければ他人に話しかけられない人間だし、しかも40余年生きてきて、現実に自分と同等レベルの太宰治ファンという人にほぼ出会ったことがない。
ところが、このお店の内装と棚のラインナップ、そしてお店に集う太宰ファンは、どうしたものだろう。こうしたお店は未体験だし、特に店主の駄場さんの太宰ファンっぷりには驚き、かつ嬉しく思ったのだ。
仮に太宰治ではなくとも、自分と同じほどの熱量を持ったファン(同好の士)と出会うほど、人生で嬉しい出会いはない。ご本人は「自分史ばかりで」と恐縮しきりだが、関西出身・在住だった店主(著者)がどうして三鷹で古本カフェをやるに至ったのか、知りたいところではあった。私も未だに熱が醒めない太宰ファンの1人として、本の感想と共に思い出を残しておこうと思ったのである。

武蔵野市関前に住んでいた頃

私は当時、2月で18歳になったばかりだった。ごく簡単に言うと、池袋にあった某ソフトハウスの正社員になって2年目で、親会社の営業マンと会社を作って独立する話も具体化しつつあった頃だ。高校の時の同級生だった悪友にお願いされて、そいつが借りていた武蔵野市関前3丁目にあった廃業した牛乳屋の、床が5度は傾いていた2階の部屋に転がり込んだのだった。
正確な日付は忘れてしまったが、確か4月の中旬から5月の上旬頃だったと思うが、当時使っていたパソコン一式と松本零士コレクションを除くカラーボックスの本棚2つ分の蔵書、それにスーツを含む多少の衣類と身の回りのモノだけを持って簡単に引っ越した。

当時は帰宅して酒呑んで寝るだけの実家からの開放感と、これから始まる会社の独立等の希望だけで、別に通勤と生活に困らない場所であれば、半分朽ちかけて部屋が傾いているような場所でも何でも良かった。
あの頃はバブル景気でもあったし、私を同居人として誘った悪友とその仕事関係の仲間たちはバイク雑誌の編集やライターをやっているような連中で、それこそ毎日がお祭り騒ぎであったから、今思い出しても不思議な時代だった。
転居してしばらくすると、当時も今も地理オンチの私だが、自分が住む土地が太宰治と密接な場所の近くだとすぐに思い当たり、悪友と地図を広げて太宰治が眠る禅林寺の場所等を調べ、バイクで三鷹の街を走り回ったものだ。
あの頃すでに睡眠障害気味だったので、毎晩ウィスキーを睡眠薬代わりに呑んでおり、当時非常に安くなったバーボンのアーリータイムズを毎日毎日、ほぼ独りで1本空けていた。それでも朝方まで寝付けないと、近所の遊歩道から玉川上水までよく散歩したものだった。

太宰婚~古本カフェ・フォスフォレッセンスの開業物語~』(以降、『太宰婚』と略)を読んで自分でも意外だと思ったのは、私は確かに三鷹の禅林寺玉川上水近辺は思い出もあり、愛着に似た感情もあるにはあるが、それ以外の場所や最寄りの三鷹駅や吉祥寺駅を中心とした街に、何ら魅力を感じていなかった。むしろ、バイクで1時間ほど走った場所の、私が育った埼玉の地元の方が遥かに便利で暮らしやすい上に物価も安いため、何かにつけ不満に感じていた。
これは「その気になればいつでも行ける」場所から気軽に転居した私と、何度も京都から夜行バスに乗って店舗物件を物色しに上京していた著者との、決定的な違いだろうと思う。
18歳から未だに桜桃忌に参加し続ける私だが、今でも正直、三鷹の街や吉祥寺の街は好きになれない。私が住んでいた辺りは、今では「昔の通りの面影が残っている」ぐらいにまで街並みが変わってしまったが、当時近所で大変お世話になった古い一膳飯屋スタイルの定食屋「大盛屋食堂」と、その大将と女将さん夫妻は忘れられない。そして10年ほど前に小綺麗に建て替えられてしまったが、吉祥寺駅そばの「いせや」(総本店)さんも。それ以外はもう、「他人の街」という感じで馴染めなかった。
私が住んでいた当時は今ほど太宰治とその文学は注目されていなかったし、私が知る上でも三鷹の街は素知らぬ風で、人も無関心だったのもある。何より当時は、太宰ファンには信じられないほど風当たりが強かった。

同棲とパソコン通信の頃

太宰婚』の第1章と第2章では、著者が初めてパソコンを買ってインターネットデビューし、太宰治関連HPホームページ)で運命の人にネット恋愛してからの同棲生活が語られているが、私は武蔵野市の傾いた部屋に1年近く住んだのち、有限会社を登記した練馬区中村橋に引っ越した。ほどなくしてある女性と出会い、彼女が私のアパートに転がり込む形で同棲していた。
私の場合は90年代初頭の話で、『太宰婚』では99年から2000年初頭の話であるから、約10年ほど時間的にズレがある。ところが、私は文中のRR氏(その後の著者の旦那様で、文中には「RRくん」から同棲で「ひろくん」となっている)とほぼ同じ歳であるし、相手が転がり込んでの同棲というのにも親近感が湧く。

そもそも私は小学生の頃からパソコンのBASICでプログラムを書くようなガキで、将来は絶対にプログラマになるんだ!と決めていた。中学生になると念願のパソコンを手に入れ、地元のソフトハウスや北坂戸の某マイコンクラブに出入りしていた。
自宅でパソコンに熱中するあまり、徐々に学校に登校しなくなり、しまいには登校拒否児なみに学校をサボった。中2の2学期から高校受験に突入して行くが、もう3学期が終わるというのに(高校受験なのに)全く学業を放擲していたので、私の偏差値は絶望を意味していた。その頃、父は原因不明でずっと自宅で病臥しており、非常に狭い世界しか知らない私は、毎日が「地獄の思い」でいたことは確かだ。
そんな折に、いつもの通い慣れた古本屋のビッシリ文庫本が埋まった棚の中から、あの薄い太宰治の『人間失格』の文庫を発見したのは、ほとんど奇跡のように思う。以来、太宰治ファンとしてハマったのだった。
結局、普通に県立高校に進学したが、高2の夏に父が亡くなり、長男の私が高校を中退して家計を背負わなければならなくなったのである。

話を元に戻すと、練馬区中村橋の6畳にキッチン3畳風呂トイレ別のアパートで同棲していた1年ほどは、今から思えば甘美な日々だったと言える。独立したばかりで仕事は大変だし、常にお金の心配をしながらバイトまでしつつ、何とか仕事と同棲生活を両立させていた。
本とパソコン関係のモノは何でも捨てずに取っておいているので、当時のパソ通(横浜にホストがあった草の根BBS)で文学SigSigOp(シグオペ=Sigの管理人)をやっていた頃のログも、大量に持っている5インチフロッピーの中のどこかに残っているハズだ。2400bpsの最新モデムを秋葉原で3万5千円に値切ってホクホクしながら帰宅した当時、(私は草の根BBSでしか活動していなかったが)太宰治の名前どころか、文学好きなパソ通ユーザは非常に稀で、少数派もいいところだった。それでも本好きで年上のパソ通仲間から教えてもらった本なども読み、書き込みとレスとチャットに明け暮れたパソ通ライフは、とても楽しいものだった。
しかし楽しい日々は長く続かず、バブル景気は弾けて会社は資金繰りに詰まり、母が個人で経営していた居酒屋は火事で消失し、母は寝たきりになってしまった。私は会社を離脱してフリーランスとなり、泣く泣く彼女と別れ、逃げるようにアパートを引き払って実家に戻った。それからは借金苦と生活苦の、介護地獄の毎日だった。

ジオシティーズと大学の頃

母が寝たきりで通常の病院(健康保険の利く西洋医学)を拒絶し、健康保険の利かない東洋医学(気功療法)でかなりの医療費を遣ってくれていた3年ほどは、とにかく言語を絶する苦しさではあったが、何とか寝たきりを脱してくれたので、まだ良かった。外に勤めに出られるようになったからだ。今思えば私はともかく若くて元気であり、有形無形で応援して支えて下さった人達と仕事に恵まれた、としか言いようがない。
社員のフリして実はフリーランス」なので、色々と仕事面では理不尽な目にも遭ったが、家事と介護から開放されてくると自然と希望も湧き、志を抱いて大学の門を叩くことが出来た。私は99年に大学の二部(夜間部)商学部産業経営学科に入学し、大学の社会人学生サークルでサークルのHPの作成と運用を買って出た。
太宰婚』でもジオシティーズのURLの記載があるが、当時のテイストのHPをとても懐かしく拝見した。私が最初にサークルのHPを置いたのも、無料で使えたジオシティーズであった(本年3月31日でジオシティーズのサービス終了とともに閉鎖)。

※当時のネット事情に関してはコチラを参照のこと

太宰婚』で著者がネット恋愛をすることになった、RR氏が運営していたサイトは私も知っており、ブックマークして何度か訪れたことがある。私も個人でサイトを作ろうか?と思わなくもなかったが、私の場合は著者と違って(?)大学の講義に出るのが楽しくてならず、必修の語学と体育(しかも実技)を除くと、日々全く知らない学問領域を学ぶ方が遥かに新鮮だった。それにネットではサークルの各種MLHPの運用に忙しく、松本零士太宰治といった自分の趣味に割けるヒマがなかったのである。
大学のサークルでは、二部がない経営学部を除く文系学部の学生が在籍しており、学年や年齢、職業もバラエティに富んだ人達と交流が持て、大いに刺激されたのは非常に良かった。当時は特に社会人学生が流行していたワケではないが、他大学の社会人学生とネットやリアルで広く交流が出来たのも、今では良い思い出ではある。
私はフリーランスだったが、客先に出向しての仕事であるし、そんなに高い単価での仕事ばかりでもない上に、仕事の保証もない。特に私の場合は経済的に余裕がほぼ無い状態で母を養いながら社会人学生をしていたので、その実情は必ずしもバラ色ではなかった。
何より現実社会では、一般的な大学新卒はプラチナチケットではあるが、大学教育の価値と意義は低く評価されていたし、仕事面ではむしろマイナス評価ですらあった(私個人の経験でも、表では仕事をしながら大学で学ぶ姿勢を評価している風でも、裏では「いい気なもんだ」と誹謗中傷的なことを言われていたケースは少なくなかった)。また、社会人学生にも、残念ながら問題のある人が少なからずいたのも事実ではあった。
不思議なことに、大学のサークルに所属していた文学部の学生や、他大学の文学部の学生と文学の話をした記憶がほとんどない。確かに文学部でも学科と専攻が違えば、文学にまったく興味が無い人も珍しくはないが、とても奇異に思ったのは確かだった。
大学時代に文学の話をしたと言えば、同じクラスに山口県から高卒で都内の某ホテルに就職し、大学に進学した(言い方が変だが)現役生のH君がいた。彼は毎月文藝春秋を購読するほどの読書家で、お互いに本をプレゼントし合ったり、(特に中原中也について)文学を語り合ったが、考えてみれば商学部の学生同士なのに変な話だ。そのH君も変則的なホテル勤務のせいか、3年次以降はほとんどキャンパスで見かけなくなってしまい、在学中に送った年賀状が宛先不明で返送されて以降、ずっと音信不通のままである。

三十歳の純粋派

私の30代は、ある意味これまでの人生の中で一番劇的に変化があり、少しの喜びはあったものの、概して苦難と絶望に満ちた10年だったと言える。そして、実に不思議なことに、精神的に太宰治を拒絶した10年であったかも知れない。
個人的には、なんとか留年することなく大学を卒業したものの、しばらくフリーランスを続けたが正社員となり、結婚してマイホームを持ち、そして何もかも失った10年と言える。母が突然亡くなったのは38歳の1月で、すでにその頃には離婚していたが、自分の中で何かが瓦解したように思う。
とはいえ、2008年(平成20年)の太宰治没後60年にはmixiで私が主催していた太宰治のコミュニティにて「桜桃忌オフ」を主催・実行し、雑誌『東京人』に取材されて実名と写真が公開されたり、翌2009年の太宰治生誕100年(平成21年)では、第1回の太宰治検定を受験しに2回目の青森旅行にも出ている。

多分にうつ病のせいだと思うが、集中力が続かないので読書しても内容が頭に入らず、意識が飛ぶこともしばしばあった。それが仕事中にも頻発したため、公私共にかなりの打撃で追い詰められた。
mixiで主催していたコミュニティで出会う太宰ファンや、自分でイベントを主催した桜桃忌オフ、そして受験した太宰治検定に関しても、どこか「無理やりな義務感」といった気持ちがあった。初めて青森を旅行したのは1995年(平成7年)で、それこそ夢中になって歩きまわって写真を撮りまくったが、太宰治生誕100年(平成21年)のまたとないチャンスなのに、それほど元気も情熱もなかったのを覚えている(実際、デジカメなのにそれほど写真も撮っていない)。

太宰婚』の第6章にお店を経営する上で「一回目の危機」が語られているが、ほぼ同じ頃、私は都内の心療内科や地元の精神科を渡り歩いていた。私も在学中、しばしば通勤・通学の電車のプラットホームや、大学のキャンパスの人混みで急に不安になり、嘔吐感にも似た気分の悪さで動けなくなることがあった。本格的にうつ病と診断されたのは、大学を卒業してとある会社に勤めてからだったが、30代の10年間はうつ病との闘いだった。

四十歳の保守派

キミ、こんな生活を続けているようじゃ、40まで生きられないよ?

診察室の丸椅子に座りながらも胃が痛くてお腹を抱えて苦しんでいる私に、医師は微塵も笑わず、冷ややかに予言とも断言ともつかぬ診断を言ってのけ、そして私の目を見たが、私には返答のしようがなかった。
実家に戻って昼間は自宅で受託したシステム開発をし、夜は新宿歌舞伎町の某バッティングセンターで夜勤のバイトをしていた当時、毎日毎日胃が痛くてどうしようもなかった。胃潰瘍と診断されたのは15歳だったので、胃痛はもはや持病と諦めて胃薬を飲んでいたが、実家に戻ると徐々に胃の痛みは激しくなり、最後には転げ回るほどになった。

胃カメラを呑んだ。胃潰瘍に加えて十二指腸潰瘍だった。

医師の診断を真に受けたワケではないが、当時21歳の私には40歳は遠い遠い未来の話のように思っていたし、正直、こんなに苦しいのなら早めに人生にサヨナラするのも悪くない、ぐらいに考えていた。
よもや太宰治の39歳を超え、三島由紀夫の45歳をも超えてこんなに馬齢と恥を重ねて生き延びようとは、当の本人の私でさえ、赤面モノである。しかし、私も不惑を超えて、やっと色々なモノが見えて来た。

指導者は全部、無学であった。常識のレベルにさえ達していなかった。
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しかし彼等は脅迫した。天皇の名を騙って脅迫した。私は天皇を好きである。大好きである。しかし、一夜ひそかにその天皇を、おうらみ申した事さえあった。
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日本は無条件降伏をした。私はただ、恥ずかしかった。ものも言えないくらいに恥ずかしかった。
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天皇の悪口を言うものが激増して来た。しかし、そうなって見ると私は、これまでどんなに深く天皇を愛して来たのかを知った。私は、保守派を友人たちに宣言した。
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十歳の民主派、二十歳の共産派、三十歳の純粋派、四十歳の保守派。そうして、やはり歴史は繰り返すのであろうか。私は、歴史は繰り返してはならぬものだと思っている。

出展:太宰治苦悩の年鑑」(初出:「新文芸」昭和21年3月)

生前「太宰嫌い」を公言していた三島由紀夫も、何だかんだと若い頃に随分と読んだが、晩年の行動が不思議でならなかった。しかし、ようやく太宰治が「苦悩の年鑑」で言おうとしていた真意が分かり始めると、三島由紀夫が身を挺して訴えたかったことが腹の底から「合点がいく」気がして来たのである。

長くなるのでごく簡単に述べると、それまで私の中で太宰治に関しては、主に作品と聖書が興味・関心の中心であったが、そこに「近現代史の再考」という新たな視点が加わった。特に私の太宰治研究では長篠康一郎氏の貴重な著作・研究に出会ったのが非常に大きい。無論、これまで読んできた坂口安吾檀一雄もまた、違った読み方が可能になった。
14歳で出会った太宰治の『人間失格』だが、文学は本当に奥が深い。知れば知るほど自分が「知らない」ことを思い知る・・・私は中二病をコジらせたまま、一生を終えるような気がしてならない。

太宰治と現代の女性たち

女性は、我々男性には思いも及ばない大胆な決断をし、それを実行してしまう不思議な力があると思う。太宰治が生きていた時代でもそうだが、現代にも静かに熱い女性がいるので、簡単に紹介しておきたい。

林聖子

林聖子さんは新宿三丁目の文壇バー「風紋」のマダムにして、数少ない太宰治の生き証人である。残念ながら文壇バー「風紋」は、昨年の太宰治没後70年の2018年(平成30年)6月末で57年の歴史に幕を下ろした。

個人的には2度ほどお店に行き、1度目は完全にフリーで行ったが、林聖子さんとお話を伺うことができ、お店にあった著作『風紋30年アルバム』と『風紋五十年』を購入した。
2度目は原きよさんの朗読会が「風紋」で開催され、記念にと思って『風紋五十年』を持参し、林聖子さんにサインをお願いした。サインの日付を見ると2015年4月22日とある。

個人的な感想だが、一端の呑んだくれとして「バー」と名が付くのに不満が大いにあった(だから足が向かなかった)が、林聖子さんのお歳を考えれば閉店はやむなしだと思う。

原きよ

原きよさんと初めてお会いしたのは太宰治生誕100年の2009年(平成21年)に旅行した青森県の金木で、津島家新座敷(太宰治疎開の家)での朗読の会だった。初めて体験した太宰作品の朗読会で、非常に感動したのを覚えている。

その後、mixiやFacebookで交流を持たせていただき、何度か朗読会に参加させていただいた。ここ何年かは都合が合わないことが多くてさんとはご無沙汰しているが、近年では劇団「シアターRAKU」の劇団員としても活躍されているようだ。
三鷹在住で、毎年6月19日は青森県の芦野公園にある太宰治文学碑前の太宰治誕生祭に参加され、太宰治疎開の家太宰作品の朗読をされている。太宰作品の朗読をライフワークとしている稀有な女性である。

駄場みゆき

冒頭から紹介しているが、駄場みゆきさんは三鷹にあるフォスフォレッセンスの店主で『太宰婚』の著者である。

詳しくは『太宰婚』を読んで欲しいが(自費出版でフォスフォレッセンスでしか購入出来ないが)、三鷹における太宰治ファンのハブ的役割を負っていると言っても過言ではあるまい。私は参加したことはないが、ダザイベート(太宰治作品自由研究会)もお店で主催されている。
太宰治関連で貴重な本がこれほど揃っていて、しかも手に取って購入出来るお店は、神田の古本街でもまずお目にかかれない。私はアイスコーヒーばかり頼むが、この太宰ラテフォスフォレッセンス名物で見た目も味も美味。

その他

太宰治検定は2017年(平成29年)を最後に、従来の五所川原と三鷹に会場を用意して実施する検定試験は終了した。私も検定員の末席で問題作成や試験官にも当たったが、作家でタレントの木村綾子さんと、太宰治の熱烈なファンで検定に並々ならぬ情熱を持って努力されていた、静岡県在住のSさんを挙げておく。
また、個人的に未知の人を含めると、太宰治の忘れ形見で作家の太田治子さんも挙げられよう。非常にレアな本だが、『タケの色々な話』を世に出してくれた、越野タケのお孫さんの越野由美子さんも挙げておきたい。生前のタケさんを知る、唯一貴重な資料である。

太宰治生誕110年に向けて

私が「聖地巡礼の旅」と称して太宰治の生誕の地、青森県の金木に初めて一人旅に出たのは1995年(平成7年)の夏だった。当時、私はWindows3.1で旅行業界向けのパッケージシステムの開発をしていた。まだDBの設計もロクに出来ていない状況で、何の気なしに宿泊業者ガイドを眺めていたら、ふと「斜陽館」に目が止まった。
当時、太宰治の生家は旅館「斜陽館」として営業していたが、赤字経営が長く続き、身売りの話が出ていた。地元の金木町に買われるだろうと報道されていたが、そうなると旅館として宿泊は出来ない。いつ斜陽館が売却されるかは分からなかったが、間もなくだろう、と言われていた。「こうしてはいられない!」無理やりに夏休みを2日だけ取り、仕事を終わらせた金曜の夜、上野発の夜行列車に乗ったのだった。


読売新聞 1996年(平成8年)4月7日 朝刊

あれから20数年、200枚以上の写真を撮って現像したが、忙しさにかまけてロクに整理しないままとなっていて、その後も以前運営していたブログにアップしようとして全部を掲載しきらない所で挫折したままになっている(唯一の例外として、95年当時桜桃忌で知り合った千葉県在住のUさんへ、お借りした写真のネガのお礼にアルバムとしてまとめた物を作成して郵送したことがあった)。前述したが太宰治生誕100年の2009年(平成21年)6月に14年振りで金木を再訪した時、あまりの変わりように驚いたものだ。
私としても何とかしようとずっと考えていて、まずはこうして自分でブログを開始してみたものの、コンテンツとして趣味の松本零士太宰治をどうしようか悩んでいた。そこである閃きがあり、昨年夏からPukiWikiを自前で立ててカスタマイズしようと画策した。その試みで挫折中なのが、私設松本零士博物館だ。

予定ではとっくに松本零士私設博物館は立ち上がり、今年の桜桃忌までに太宰治のサイトを立ち上げる予定であったが、大いに予定が狂いまくっている。そこへ来て駄場さんが太宰治生誕110年を記念して『太宰婚』を自費出版されたので、内心大いに焦っていたりする(笑)。

おわりに

冒頭にも述べたが、私はフォスフォレッセンスさんに遊びに行くようになってまだ3~4年ほどで、それも年に何度か気まぐれに顔を出す程度である。確かに『太宰婚』第7章の「二回目の危機」は知っていた。知ってはいても、何をどうすることも出来ない。それと、やはりこれはジェンダーの違いだと思うが、私は太宰治を異性として捉えることは不可能で、少なくともそういった「惚れ方」や「共感の仕方」は頭では理解しても、感覚として理解不能である。だから、単純に本の感想を書くのが難しかった。
実を言うと、本当はここまで長々と書くつもりは毛頭なかったのだが(これでもかなり文章を削って簡潔にしてみたが)、『太宰婚』の太宰治ファンとしての熱量に触発されたと言えば、それまでではある。ハッキリ言ってしまえば、嬉しくてついつい、書かなくても良いようなことまで、アレもコレもと書きたくなったのだ。
お蔭で忘れていた「あの頃」を思い出し、懐かしい人の写真や手紙なども出て来た。90年代はあまり写真を撮ることをしていなかったし(昔はフィルムカメラだし)、探したものの出てこない当時の写真が気がかりで残念だが、太宰治に対する気持ちの棚卸しが出来たように思う。
思えば、スマホと各種SNSの普及によって、誰もが簡単にネットで情報を調べ、また発信することが可能になった。太宰治没後50年の1998年(平成10年)を経て2000年前後ぐらいから徐々に太宰治とその文学が見直されるようになったが、それはネットに依るところが大きいと思う。そしてやはり太宰治生誕100年の2009年(平成21年)から、目に見えて太宰治とその文学、そして太宰治ファンが評価されて来たように感じる。
最後に、これからもフォスフォレッセンスさんが太宰治ファンのオアシスとなり、末永く愛される古本カフェとしてお店の歴史を刻んで行って欲しい。私もまた、フラッとバイクに乗って遊びに行くつもりだ。そしていつの日かこの『太宰婚』が商業出版に乗って加筆することがあって、(一点校正の甘い箇所があったので、それをコソッと直して)広く太宰治ファンに読まれたら、とても素敵だと思う。

 

 


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