【和製チャーチル】吉田茂の功罪を考える

先日、テレビ東京の開局55周年特別企画スペシャルドラマ「アメリカに負けなかった男~バカヤロー総理 吉田茂~」が放映になった。

リアルタイムで全部見られそうもなかったので録画しておき、後日ゆっくりと見たが、コレがなかなか良かった。ドラマとは言え、史実にはかなり忠実だと思うし、幾分「平和憲法」や、日本の「平和国家」を強調しているキライがないではないが、全体として良く出来たドラマだと思う。戦後どのようにして日本が復興したのか?を考える時、吉田茂は絶対に避けて通れないからだ。
そこで「吉田茂ついて知るキッカケになれば」と思い、稚拙ながら吉田茂の功罪についてまとめてみたい。

若者が覚えられない歴代総理大臣

試しに、若い人に向かって「吉田茂って知ってる?」と聞くと、20代ではほぼ「知らない」という返事が返って来た。何とか名前は読めるが、何をした人かすら知らない。30代でも「名前は何となく知ってる」人はいたものの、戦後初の総理大臣であることを知る人はいないようであった(全俺調べ)。
と言っても、私を含む40代に質問しても、その返答はハナハダ怪しい。恐らく半数ぐらいは「知らない」と答えるのではないか?と思う。
私が10代や20代の頃、テレビ番組では「今の総理大臣は誰ですか?」と、街を歩いている女子大生や若いOLに街頭インタビューし、「えー?分からなーい!キャピ」なんて様子を流して「今の若者は・・・」みたいなことを延々とやっていた。
現在の安倍政権は長期政権だから、今や政治に興味がない女子高生でも日本の総理大臣が誰であるかは普通に答えられると思う。しかし、第1次安倍政権から現在まで3期8年足らずの第2次安倍政権で憲政史上最長なのだから、それ以前の政権がいかに短命であったか、ということだ。昭和から平成の半ば過ぎぐらいまで、総理大臣がどれだけコロコロ変わったのか、総理大臣が誰かを知らない(政治に興味がない)若者が今までどれだけ多かったか、その証左でもある。
短命で消えた政権の歴代総理大臣をいちいち覚えている必要はないが、少なくとも「現在の総理大臣が誰か」ぐらいは知っとけ!というのが「大人の常識」であろう。しかし、その「大人」ですら、吉田茂が何を成してどんな問題を積み残したのか、ちゃんと知らないのではないか、と思わずにはいられない。

「和製チャーチル」吉田茂とは?

吉田茂は葉巻が好きで、ふくよかにして迫力のある容貌や、ワンマンでユーモア好きな点からも「和製チャーチル」と呼ばれていた。それもそのはず、吉田茂は元々外交官であり、駐英大使であって、英国かぶれでもあった。

英国議会のトイレにて、一番奥の便器に向かって放尿している(戦後チャーチルを破って首相になった)労働党のアトリーを見るや、チャーチルは入口に近い場所の便器を選んで立った。

クレメント・アトリー
ウィンストン、本日はちょっと、よそよそしいですな?
ウィンストン・チャーチル
当たり前だ。
君は大きいものを見ると、すぐ国有化してしまうから。

戦後の日本は深刻な食糧難のため、総理大臣になった吉田茂GHQマッカーサーに450トンの食糧援助を要請するが、アメリカからは70トン程度の食糧援助しか得られなかった。しかし、70トンの食料でも餓死者が出るどころか、むしろ食料は余った

ダグラス・マッカーサー
450トンも必要なかったじゃないか。どんな統計をとったんだ!?
吉田茂
日本の統計が正確なら、あんな戦争なんてしませんよ。
したとしても勝っていたはずです。

吉田茂を知らない人がチャーチルを知っているとは思えないので、画像と2人に共通した「ユーモア」を紹介したが、先に述べたように吉田茂は外交官で駐英大使であり、親英米派であった。よって、吉田茂は駐英大使として日英親善を目指したし、日独防共協定および日独伊三国同盟にも強硬に反対した。そして大東亜戦争の開戦阻止を目指したのである。また、開戦後はヨハンセンしだはんせん=吉田反戦)として和平工作をし、戦争末期に近衛上奏文につながる終戦後策を検討していたことがバレて憲兵隊に拘束されてもいた。それが戦後、日本を占領したGHQから「反軍部」として信用を得ることにもなったという。
ザックリ言えば、1946(昭和21)年に鳩山一郎GHQにパージ(公職追放)されて総理大臣になったのだが、このとき吉田茂は67歳と当時としては高齢だった。しかし、この吉田茂が戦後政治の原型を作り、現在の日本の基礎を築いたのである。

戦後ニッポンと吉田茂

戦後の第1次吉田内閣成立から第5次吉田内閣総辞職まで、時系列で整理してみたい。

上記の通り、吉田茂は重要な「敗戦後の日本の舵取り」を任された。日本は米軍による無差別爆撃と広島・長崎への原爆投下により、国土は焦土と化していて、しかも労働力となる日本人の大半は兵士として出征し、食料も住宅もない中で終戦を迎えた。そこへ戦勝国のGHQが乗り込み、好き勝手に占領政策を実施したのだから、権力にオモネるような曲学阿世の総理大臣であったならば、現在の日本はなかっただろう。

吉田茂の功績

日本で5回も総理大臣になったのは吉田茂しかいないが、良くも悪くも現在の日本があるのは吉田茂のお陰ではある。そこで、吉田茂の功績について列挙したいと思う。

以下、詳細に見てみよう。

戦後の経済復興とドッジライン

日本は国を挙げての総力戦で大東亜戦争に臨み、結果として破れた。民間企業は軍需産業に転換させられていたし、ほとんどの民間企業は日本政府に対して膨大な売掛金を持っていた。GHQが進駐して占領政策が開始されるまでの数ヶ月は、政府は軍需発注分について未払金を払い続けたが(戦時補償)、その資金は通貨の増発によって調達されていたために物価は高騰した。しかも国内の産業は空襲によって6割以上が破壊されているので、通貨の増発による供給能力がないために、結果として激しいインフレとなったのだ。
アメリカ政府の占領初期の目標は、「日本に二度と戦争をさせない」ことだった。GHQはただちに日本政府に戦時補償の打ち切りを命じ、財閥解体公職追放を実施した。これにより、日本の中核的企業は解体させられた上に社長や役員が追放され、しかも日本政府への巨額の債権も放棄させられた。それで国を復興させようって方がムチャだ。
そこで、吉田内閣では基礎産業である石炭を増産させ、その石炭で鉄鋼を生産させる傾斜生産方式を採用した。石炭や鉄鋼の生産を優先させることで、食糧生産に必要な化学肥料や電力等の産業へ重点的に資材を配分することにしたのだ。同時に復興金融金庫を開業し、石炭と鉄鋼の二大産業の復興に必要な資金を低利で引き受けた。いわゆる「復金債」を発行し、それを日本銀行が引き受けたのである。石炭と鉄鋼は基礎物価になるから、政府は価格を統制して低く抑えた。すると石炭と鉄鋼産業の企業は赤字に落ち込むので、政府がその価格差補給金を支払う。復金債にしても価格差補給金にしても、通貨の増発を意味するのでインフレは猛烈に進行するが、基礎物資の供給は増えるため、肥料・電力・造船といった他の重要産業に振り向けることが可能になった。
ところが、米ソの対立が深まるにつれ1949(昭和24)年10月に中華人民共和国が成立し、アメリカは対日占領政策の変更を余儀なくされる。日本を再び軍国主義に戻れないように締め上げるより、反共同盟国として経済的に自立させる政策に転換する必要があった。
つまり、日本経済を押さえつけておけば生産は伸びず、かと言って日本人が生きるための消費が生産を上回る以上、そのギャップを経済支援として占領しているアメリカが埋め続けなければならない。もし経済支援を止めれば、日本は深刻な社会不安から共産主義政権が誕生する可能性がある。そもそも戦時中に投獄されていた共産主義者を開放したのはGHQなのだから、実に勝手なものだ
ともあれ、アメリカ政府はデトロイト銀行頭取のジョゼフ・ドッジを特使として日本に派遣し、均衡財政政策のため、価格差補給金の廃止・復金債の停止・1ドル360円固定為替レートといった、強烈なデフレ政策を吉田内閣にやらせた。ドッジライン政策によって結果として日本のインフレは収まったが、やっと戦争が終わったと思ったら物不足の急激なインフレで、その次に急激なデフレ政策による大不況に見舞われた。国民は良く耐えたとしか言いようがない。

平和憲法と警察予備隊の創設

日本はポツダム宣言を受諾して連合国に降伏したため、ポツダム宣言で要求された、

  • 日本軍の無条件降伏
  • 日本の民主主義的傾向の復活強化
  • 基本的人権の尊重
  • 平和政治
  • 国民の自由意思による政治形態の決定

等により、事実上大日本帝国憲法を改正する法的義務を負うことになった。
現行の日本国憲法は「アメリカ(GHQ)による押し付け憲法だ」とし、憲法改正論議も含め批判されることが多いが、これには理由がある。
当時、幣原喜重郎内閣の下、松本烝治国務相の憲法問題調査委員会が「改正案綱領」を検討していたものの、内容的に大日本帝国憲法から多くを出ない保守的なものであった(毎日新聞によりスクープされ、その内容がGHQと国民の知るところとなった)。
GHQ民政局(GS)のコートニー・ホイットニー局長は、日本政府が作成した憲法改正案の作り直しを命じるよりも、GHQで原案を作成して正しい方向に導くべきだとマッカーサーに具申し、マッカーサーはその具申を受け入れ、ホイットニー局長に憲法草案の作成を指示するところとなった。
GHQが焦る背景には、1946(昭和21)年2月に予定されていた極東委員会で、ソ連が日本に天皇制を廃止させて昭和天皇の戦犯訴追を強行する可能性があったことや、日本を共和制にして大混乱させ、それに乗じてソ連が北海道を侵攻する策動に(ダーウィン空襲や自国軍捕虜に対する日本軍の虐待等から日本への感情が極めて悪い)オーストラリアが支持するような形勢があったとされる。
要するに、アメリカが日本占領の主導権を握り、スムーズな占領政策を実施するには天皇制が必要であり、早急に憲法を改正させて「日本の民主化の完了」と「共和制にする必要がない」ことを他の連合国から了解を得る必要があった。また、日本に対しても象徴として天皇を憲法に明記することで天皇制は存続され、日本の国体が変革されないことを納得させるしかない、との結論に至ったとされる。
しばしば「天皇陛下を人質に憲法を押し付けた」と批判されるのもこの理由からで、実際に「天皇制を廃止して共和制にし、昭和天皇を戦犯にしたいんか?(゚Д゚)ゴルァ!!」といったGHQ側の圧力があったろうと思われる。
ともあれ、日本政府はGHQの憲法草案を受け入れ、GSとの協議と修正を加えて第1次吉田内閣日本国憲法を1946(昭和21)年11月に公布、1947(昭和22)年05月に施行した。実際に昭和天皇に日本国憲法を上奏し、裁可を得たのが吉田茂であった。

その後、1949(昭和24)年のドッジライン政策によって、国民は血ヘドを吐くような生活苦を強いられたが、翌1950(昭和25)年06月に突然朝鮮戦争が勃発して「朝鮮特需」が発生した。朝鮮戦争の勃発により、米軍から戦争物資や基地の建設工事・資材の輸送・通信その他、集中的な発注がなされた。その後朝鮮戦争が休戦すると、今度は家具や食料品等の復興物資が発注された。朝鮮戦争による直接的な特需ばかりでなく、米ソ対立構造は今後も続くと考えられ、世界の主要国が軍備拡張に走ったために世界的な貿易が活発になっていたのだ。
ドッジライン政策により、戦時軍需体制で歪んでいた国内の産業構造が荒っぽく矯正され、ハイパーインフレで経済力以上に膨張した通貨需要が無理矢理に圧縮されていたのも、朝鮮特需以降に国内の企業体質と日本全体の経済体質が急速に強くなった一因であると言えるだろう。
しかし、日本は相変わらずGHQの占領下にあり、司法・立法・行政の三権に深く介入している上に、言論統制もしていた。吉田茂でなくとも、GHQによる内政干渉と大国の論理は受け入れがたいものだったに違いない。アメリカの占領政策の転換はすでに述べたが、朝鮮戦争が勃発すると、アメリカでは日本をアジアの「防共の砦」にするべく、日本の防衛力や経済力を反共のために使った方が良いという考えが広まった。占領軍であるGHQが占領地の日本をやすやすと手放すとは思えないが、吉田内閣も連合国と講話を結び、日本の主権回復と独立を急ぎたい。
アメリカは「防共の砦」として日本の再軍備を望んだが、これは明らかに日本国憲法第9条に矛盾する。マッカーサー吉田茂も日本の再軍備には否定的だったが、朝鮮戦争で在日米軍が朝鮮に出動すると日本国内が軍事的真空地帯になってしまう。そこでGHQは共産党に指導された暴動が発生することを考え、「軍隊ではない警察予備隊の創設を指示したのである。

日本の主権回復と引き換えになった日米安保

1951(昭和26)年01月にジョン・フォスター・ダレス国務長官が来日し、吉田茂第3次吉田内閣)に「再軍備を条件に講和条約を結ぶ」交渉を行った。前述の通り、アメリカは「防共の砦」として日本の再軍備を望んだが、吉田茂は「経済力不足」と「軍国主義への危惧」から再軍備は否定していた。しかし、単独講話ででも早期主権回復を望む吉田茂は、日米安全保障条約を締結することで米軍を日本に駐留させ、日本の再軍備を棚上げすることに成功したのである。
1951(昭和26)年09月にサンフランシスコ平和条約を締結し、日本はついに主権を回復して独立した。また同日、吉田茂は1人で日米安全保障条約を締結した(条約調印の責任を一身に背負った)。これにより、1951(昭和26)年をもってアメリカは対日経済援助を打ち切ることになる。
翌1952(昭和27)年04月にGHQは解体されたが、日米安保により在日米軍に再編され、現在に至るも日米安保と在日米軍はそのまま引き継がれている。良くも悪くも、吉田茂が戦後の政治体制と戦後日本の礎を築いたと言える所以である。

吉田茂の罪過

吉田茂が軍人でも政治家でもなく、駐英大使の外交官で英国かぶれであったから、敗戦後の総理大臣として、GHQを相手に思い切った政治が実践出来たと言えるだろう。また、駐英大使時代からの知己であった白洲次郎の協力も大きかったと思われる。
戦後の日本を復興し、国際社会へ復帰させるといった大きな功績を遺した吉田茂だが、後世に大きな問題を積み残している。あえて功績の対義語である「罪過」と表現するが、次の点に集約出来そうだ。

  1. 在日朝鮮人を全員送還しなかった
  2. 日本国憲法第9条に矛盾する自衛隊創設に関わりながら改憲しなかった
  3. 日米安保により米軍を日本に固定してしまった
  4. 吉田学校」メンバーを日本の保守本流にしてしまった

上記の「罪過」に関しては、5度にわたる吉田政権でも解決しようがなかった問題かも知れないが、現代の日本において戦後70余年を経ても解決出来ないでいる。
1.に関しては、吉田茂マッカーサーへの書簡で明言したように、強制送還させるべきであった。後に朝鮮戦争が勃発したし、その後の日本は在日朝鮮人の帰還事業を実施したが、やはり完全を期すべきだった。
2.3.日本国憲法自衛隊日米安保・在日米軍の問題も、当時としてはやむを得ない決断だったかも知れないが、4.の「吉田学校」出身者である政治家の多くが官僚出身で、官僚依存と派閥政治を繰り返した愚は、やはり吉田茂に突き当たる。それは吉田茂が進めた「軽武装・経済優先」主義そのものでもある。
その結果として、アメリカ施政下にあった沖縄は奇跡的に1972(昭和47)年に祖国復帰を果たしたが、北方領土や竹島問題は一向に解決していない日中国交正常化をしながら、支那はサンフランシスコ平和条約を受け入れてはおらず、沖縄は日本の領土ではないと主張している
これら種々の問題を正しく認識し、棚上げすることなく解決して行かなければ、次の世代に問題を先送りしてしまう愚を繰り返すことになる。後の世代である我々が吉田茂を評価して断罪するように、我々の後の世代が我々を評価して断罪するのだから。

おわりに

私は日本の近現代史を特に勉強したワケでもないし、私の知識と教養レベルでは、到底吉田茂を評価し得るとは思わない。それでも何とか吉田茂についてまとめようと、貧しい本棚からいくつか本を紐解いてみた。
一旦社会に出てから大学の商学部に入学して卒業した私は、若い頃から作家の城山三郎を愛好していたので、手始めに吉田茂の同期で外交官から総理大臣になり、東京裁判で死刑を執行された広田弘毅の伝記的作品である『落日燃ゆ』と、戦後日本の金融政策のドキュメンタリーでもある『小説日本銀行』を読み返してみた。この2作品は非常に面白いのだが、どうしても吉田茂について良い印象を受けないばかりか、吉田茂についてまとめるのには不向きでしかない。ただ、時代背景と当時の日本の様子を再確認するには十分ではあった。
結局、長銀調査部のエコノミストであった竹内宏の『父が子に語る昭和経済史-あるエコノミストの半生』が内容的に偏りがなく一番参考になった。再読すると、昭和ヒトケタ世代や団塊の世代のエリートや知識人がマルクスや共産主義に傾倒した理由が、改めて良く分かる。

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その他、戦勝国側の証言として、古き良き時代のアメリカを代表するリー・アイアコッカの『アイアコッカ-わが闘魂の経営』も読み返した。アイアコッカは少年時代にリューマチ熱の病歴があったせいで大戦に従軍することが叶わなかったが、自動車産業で日本と経済戦争を戦った稀代の名経営者である。が、示唆には富むものの、やはり参考にはならない。私の本棚が貧しい所以である。そこで大学時代の教科書も漁ってみたが、参考になるような本が何もないので、大学教育について改めて愕然とするばかりであった。
ともあれ、古代史でも近現代史でも、歴史は直線的で一面的ではあり得ないし、重層的で多面的であると考えるのが普通だ。それに、どんなに史実を列挙したところで、その意味解釈によって得られる結論は大きく違う。そこで、私個人の考えはなるべく排除して史実を中心に吉田茂の功罪をまとめてみた。本稿が吉田茂を知るキッカケになれば幸いである。
最後に、、軍備は外交によって国家間の紛争が解決し得ない場合の最後の切り札になるのだが、外交官出身の吉田茂がこの原則を知らないハズはないと思う。しかしながら、「平和憲法」である日本国憲法を改憲することなく、自衛隊をアイマイな立場のままにしてしまった。確かに朝鮮戦争が休戦するまでは、日本が再軍備すれば「戦争に巻き込まれる」可能性はあっただろう。しかしその後、やろうと思えば改憲するなりして、未来に禍根を残すことはなかったハズだ。そういったことを色々と考えるに、吉田茂はアメリカと何らかの「密約」を取り交わしていたとしか思えない。これもまた、解明して解決せねばならない問題であろうと思われる。┐(´д`)┌ ヤレヤレ

 

 

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